【1〜13節】 イスラエルの罪責
【14〜18節】 未来の終末的な回復の恵みと希望
【19〜25節】 待つ神、応える民
ヨシヤ王の前々代の王マナセ(紀元前697〜643年)は、異邦人よりも悪いことを行わせた(第二列王21章9節)。マナセはヒゼキヤが壊した偶像礼拝の聖所を再建し、ありとあらゆる異教の祭儀を自由に行わせ、神殿娼婦のための家を主の宮にまで設け(第二列王23章4〜7節)、率先して自分の子どもを火で焼き(第二列王21章6節)、神のしもべを迫害した(第二列王21章16節)。マナセはアッシリヤの宗教と習慣を受け入れて隷属することで、宗主国への忠誠心を示したのである。その治世は最長(55年間)にして最悪であった。
ヨシヤ王は8歳で王となり、16歳のとき神を求め始め、20歳のとき宗教改革の大事業に着手した。マナセの悪習を改めるべく徹底した宗教改革を行った(第二列王22〜23章、第二歴代34〜35章)。祭儀の場をきよめ、偶像を破壊して火で焼き、偶像に仕える祭司や神殿男娼、娼婦をみな死刑とした。エルサレム神殿を修理し、律法の書を7年ごとに民の前で朗読させた。一貫して主とその契約の言葉に熱心であり、ヒゼキヤと並び賞される王となった(第二列王23章25節)。
しかし、マナセの長く腐敗した統治の下で人々の心に入り込んだ習慣は、たやすく改めることのできるものではなかった。マナセの長い悪政の間に、人々は神をすっかり忘れてしまっていたのである。宗教改革はイスラエル人の心まで変えることはできなかった。そしてヨシヤ王の宗教改革は次第に政治権力的な色彩を帯び始め、年月の経過とともに外形的な事柄で終わってしまったようである。
そのなかでエレミヤは、ユダに人々に対して「心の割礼を受けよ」(4章4節)と語った。
「夫になる」(14節)の原語には、「めとった」という動詞の完了形が使われている。姦淫の罪によって離婚させられたイスラエルは、本来なら石打ちの死刑(申命22章20〜21節)になるはずであったのに、その後さらにバアルを夫とした。しかし神は、その罪までも赦した上で、もう一度、イスラエルを花嫁として選び取った。地上のすべての国々を知っている神は、あえてイスラエルを選んだのである(アモス3章2節参照)。これは、神の愛が律法による断罪よりも遥かに大きく、どれだけ豊かであわれみに富んでいるかを表している。神の愛はすべての背きの罪を覆ってなお豊かにあまりある。
このように、罪人との関係を再び結ぼうとされる神の愛は、情というより意志による決定であり、選択による行動がともなう。神は再びイスラエルに関係の修復を持ちかけられる。イスラエルの心に語りかけ、彼らを取り戻そうと試みてくださる。ちなみに、ホセア書2章14〜23節では「口説く」という表現が用いられている。愛をもって強く求める神の愛が表されている。
イスラエルの民が姦淫の罪を犯したにもかかわらず、神はイスラエルとの結婚を望んでいることが、ここではっきりと示された。神の真実な愛は、イスラエルが姦淫の罪を犯しても変わることがなかった。イスラエルが神の愛をはねつけ、神に背を向けたにもかかわらず、神は誠実に愛し続け、あわれみを保ってくださった。イスラエルが自らの意志で偶像の神に近づき、それによって自らを真の神から遠ざけたにもかかわらず、である。
神がイスラエルを愛されたのは、彼らがその愛にふさわしい花嫁だったからではない。イスラエルは神の愛に値しない。それはイスラエル人の背信の歴史が雄弁に物語っている。モーセは、神がイスラエルを愛した理由について、それはただ、神が彼らを愛したからだと語った(申命7章7〜8節)。
神はイスラエルがどんな状態であっても、神に叫び求める者の声を聞かれる。神は放縦なイスラエルの上に絶えず目を注ぎ、これに干渉し、愛する娘をふたたび完全に立ち帰らせる機が熟するのを待っておられる(ホセア2章6〜7・16〜20節参照)。「背信の子らよ。帰れ。私があなたがたの背信をいやそう」(22節)と呼びかけ、罪を赦し、豊かに祝福してくださる。
【3章の脚注】
1節 申命記24章1〜4節参照。
2節 「裸の丘」 バアルの祭儀として性的不道徳が行われた場所。イスラエルの恥の象徴。
3節 「遊女の額」 恥知らずで悔い改めず、厚かましいことのたとえ。
8節 「離婚状」 北イスラエル王国がアッシリヤの手に渡され、サマリヤの人々が捕囚として移されたこと。
11節 「正しかった」 どちらも神の前に悪を行ったが、比較すると、ユダのほうがより悪かったという意味。自らの罪を軽く考えて不道徳に身を任せ、北イスラエルの滅亡を見ても悔い改めなかったことへの弾劾。
12節 「北のほう」 捕囚となっている北イスラエルの民を指す。神は、かつて身を切られるような痛みを覚えつつ愛をもって厳しくしかり、我が子の悪を正した。いまや愛をもって真実の幸福へと導いてくださる。
16〜17節 「主の御座」 かつてイスラエルの民が迷信的な信頼を寄せていた神殿でもなく、契約の箱でもなく、エルサレムそのものが主の名のおかれる聖所となり、唯一の神に栄光が帰される。
21節 「哀願の泣き声」 恥の象徴である裸の丘から聞こえる哀願であることから、真実の悔い改めの声ではなく、バアル礼拝によって毒されたご利益主義、苦しいときの神頼みである。
22節後半以降 イスラエル人の応答のかたちをとっているが、これは、イスラエル人の真実な良心の叫びを、エレミヤが神に祈るかたちで代弁したものである。
【1〜4節】 悔い改めへの招き
【5〜18節】 破滅の宣告
【19〜21節】 エレミヤの嘆き
【22〜31節】 さばきによる荒廃
悔い改めを主観的な心の問題と捉えると、行動を促す「帰って来い」(1節)という言葉は奇妙に感じるかもしれない。しかし、そもそも悔い改めとは方向転換を指し、人生の方向性がまったく変わることを意味する。行いの変化そのものを表すのではなく、心の変化が行いという外面においてあらわれる。悔い改めの実として、わたしのところに戻ってくるという行動を示しなさい、と招いている。
【4章の脚注】
3節 「いばらの中に種を蒔くな」「耕地を開拓せよ」 古い行いを残したまま悔い改めるのではなく、まずいばらを取り除きなさい、古い行いを改め、まったく新しい生活を始めなさい、と命じる。
5節 「角笛」 危険の到来を知らせる合図。恐怖の象徴。
「城壁のある町にいこう」 敵が攻めて来たので戦闘態勢に入れ、ということ。城壁のある町に兵を送り、そこを砦とすることで戦いの基点とする。
6節 「シオンのほうに旗を掲げよ」 ユダの町が次々に陥落し、その避難民を最も堅固な要塞であるエルサレムに誘導するための旗が立てられる。状勢は非常に悪く、追いつめられている様子。
「北から」 バビロンの軍隊は、ティグリス川を三日月型に迂回し、ユダの北方より襲来することから。
7節 「獅子」 バビロン軍の恐ろしさを、獅子の獰猛さにたとえている。
8節 エレミヤは預言者として神の審判を明確に語りつつも、同胞であるユダの民の側に立って神に訴え、自身の心境を嘆きとして表現する。これはエレミヤが神と民との間で板挟みとなって苦しむことを表すだけでなく、彼が民の思いをまるで自分の思いとして嘆き、代弁していることを表す。
11節 「熱風」 春に吹く東風で、シロッコと呼ばれる。冬の青草を一気に枯らす。ここでは、神の裁きとして用いられるバビロン軍を指す。
19節 「はらわた」 イスラエル人は感情の根源が内臓にあると考えた。ユダの民の痛み苦しみを表す。エレミヤは祖国に臨もうとしている災いについて傍観できず、民に代わってもだえ苦しみながら痛みを告白する。
27節 「ことごとくは滅ぼさない」 神のあわれみと捕囚民の帰還を表す。神の裁きは破壊に終始するのではなく、懲らしめ、誤りに気づかせる愛の導きである。