「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(31章3節)。神はイスラエルを真実に愛し続け、「背信の子らよ、帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」(3章22節)と、最後まで招き続けてくださった。
【1〜3節】 表題
【4〜10節】 エレミヤの召命
【11〜16節】 2つの幻
【17〜19節】 派遣と励まし
すでに北イスラエル王国はアッシリヤによって滅亡し(紀元前721年)、南ユダ王国にもバビロンの脅威が迫りつつあった。ユダは自国の取るべき方向も見えず、ただ北のバビロン、南のエジプトという大国の間で揺さぶられる不安定な社会状勢であった。そのなかで、ユダの人々は、偶像に頼み、近隣の大国という人間的な力に頼む生き方をしていた。また、「南ユダ王国にはエルサレム神殿があるので滅びない」という迷信や、形式的な祭儀、性的不道徳、欺き、幼児犠牲なども蔓延していた。
このような滅亡を目前にした嵐の前の静けさのなかで、エレミヤは召された。社会の雰囲気とはまるで正反対の、あまりに厳しい、目の覚めるような神の召命の言葉が語られる。イスラエルの人々が、神の律法に従わずに不道徳にふけり、この世の権力に心を奪われているなかで、エレミヤは神の真実を語り、神の審判を告げなければならなかった。ここから50年におよぶ苦難の預言者人生が始まる。
召命にあたり、神は、恐れを抱くエレミヤに3つの約束をくださった。
1. 預言の成就(10・12・14・16節)
2. 神の臨在(19節)
3. 勝利と守り(18・19節)
エレミヤはこれらの約束を受け取ったが、実際に働きに立つと、彼には激しい迫害と苦難が待っていた。偽預言者からは攻撃・非難され、王にも忌み嫌われて預言の書を燃やされ、民にも嫌われて物笑いとなる。さらには、牢に入れられ、故郷で暗殺を謀られ、祖国滅亡後はエジプトに強制連行され、伝承によれば孤独のうちに獄死したとも伝えられている。彼は生涯を通して孤独で、その働きも人に感謝されるものではなかった。
これほどみじめなエレミヤに、神様はともにいてくださったのだろうか?「勝利と守り」の約束は、どこにいってしまったのだろうか? 目に見える状況は、いかにも神の約束と違う。
神はこれらの困難をそのままに残された。その困難のなかで、エレミヤは、神様がともにおられることの意味を問い続けることになる(11章18〜23節、12章1〜6節、15章10〜18節、17章14〜18節、18章18〜23節、20章7〜18節)。それに対して神は、新しいことは何一つ語らず、ご自身の命令や約束を変えることはせず、むしろ悩みのたびに彼を、すでに与えたこの3つの約束へと導かれた。
人生の様々な困難に対する神様の回答は、すでに御言葉のなかで語られていたのである。エレミヤは困難のなかで何度もこのレッスンを学ぶことになった。
神は、ご自身の器を召し出されるときに、臨在の約束をくださる(出エジプト3章12節、4章15節、ヨシュア記1章5・9・17節。ダビデも詩篇23篇4節で勇気の源が神の臨在にあると告白する)。それはエレミヤの召命においても同じだった。神は変わらない愛を注ぎ、働きのなかでエレミヤが困難を覚えたときも、ともにいてくださった。困難さえもご自身の計画のうちに用いられ、働き人の信仰を強め、困難の真ん中で完全な勝利を実現してくださるのである。
苦難のなかで神様がともにおられることの意味。エレミヤは、生涯をかけてそれを問い、そして証した。彼の人生をとおして記されるこの点もまた、エレミヤ書の主題の一つだろう。苦しい病や先行きの見えない生活など、大きな困難に直面するとき、私たちも、エレミヤの生涯、彼の葛藤を思いめぐらしたいと思う。そして、エレミヤもそうであったように、ともにいてくださる神に励まされ、呼びかけてくださる神の大きなご計画と圧倒的な勝利の約束に期待したい。
【1章の脚注】
1節 エレミヤはエルサレムの北方のアナトテという寒村において、地方祭司ヒルキヤの家に生まれた。おそらく何らかの形で祭司の職に従事していたのではないかと想像されている。
2節 「治世の第13年」 紀元前627年。
6節 「若い」 嬰児から大人まで広く使われる言葉。エレミヤは経験不足を訴えているが、これは彼の謙遜というより、老人の経験と知恵が重んじられるイスラエル社会では当然のことである。
7節 「まだ若い、と言うな」 5節と7節は逆に読むとわかりやすい。わたしはあなたが生まれる前から預言者として定めていた。だから、あなたが若いのではない。今がその定めの時なのだ。
9節 「主は御手を伸ばして、私の口に触れ」 預言者として聖別し、神の言葉を授けたことを象徴的に表す。さらには神とエレミヤが親しい関係にあることも暗示する。エレミヤの按手礼。
11〜12節 「アーモンドの枝」 名詞形はシャーケッド。動詞形はショーケッドで、見張る、目覚めるの意味。パレスチナでは1月頃アーモンドの木がもっとも早く白い花をつける。春を一番早く感じて目覚めるアーモンドの木を見張りにたとえる。神はご自身の言葉を速やかに実現されること、定められた御計画を初めから終わりまですべて見通した上で見張っておられ、確実に遂行される方であることを、はっきりと語ってくださった。
13節 「煮え立っているかま」 バビロン軍が北からユダに攻め込むこと。
17節 「腰に帯を締め」「みな語れ」「おびえるな」 神はエレミヤに3つの命令を与えられた。
1. 服の裾をたくし上げて縛り、いつでも神のために立ち上がることができるように備えておきなさい。
2. 神の口としてわたしの言葉を語れ。神がしもべに命令を与えるとき、神はすでに必要な能力を備えてくださっている。神がまずエレミヤの口に触れてくださり、言葉を授けられた後に語れと言われていることに注意(9節の後に17節という順)。その言葉は神の言葉であり、預言者自身が働きの成功や失敗に責任を持つのではなく、神が命じるとおりに語ればよい、と命じる。
3. 恐れるな。この命令は神の臨在の約束とともに語られていることに注意(イザヤ41章10節)。
【1〜3節】 思い出してみよ
【4〜13節】 イスラエルの背信
【14〜19節】 イスラエルは奴隷となる
【20〜28節】 バアル礼拝の愚かさ
【29〜37節】 悔い改めない民の態度
「若かったころ」(2節)は「花嫁のころ」と訳したほうが正確だが、イスラエル人がシナイの荒野において契約を結び(シナイ契約。出エジプト24章3〜8節)、何者にも煩わされず神と2人だけの特別な祝福の関係にあったことを指している。神はこの初めの愛を新婚の頃にたとえて、「そのときの愛にもう一度立ち帰ろう」と招いてくださっている。これは、怒りをもって罪を断罪するのが目的というよりも、「涙と痛みによって思い出してほしい」と語っておられる神の愛のあらわれである。「これほどに愛しているのに、なぜ行ってしまったのか」という真実の愛ゆえの痛みがある。神はなお、契約を破り、離れていった民に対して、「わたしがあなたがたの背信をいやそう」(3章22節)と招かれる。
【2章の脚注】
8節 「牧者」 政治的指導者。宗教的指導者と区別する意味で用いられる。国政にも腐敗があったことを示す。
10節 「キティムの島々」「ケダル」 キティムはキプロス島、転じて地中海沿岸諸国を意味し、ここではパレスチナから見て西方を指す。ケダルはパレスチナの東にある砂漠のアラブ系遊牧民。世界の西から東まで。
16節 「頭の頂をそり上げる」 イスラエルが女性名詞で呼びかけられ、その屈辱が非常に大きいことを表す。
17節 「主が、あなたを道に進ませたとき」 神がイスラエル人をエジプトから約束の地へ導かれたとき。
20節 「くびき」「なわめ」 神がイスラエル人を祝福するために与えた契約の律法のこと。
「高い丘の上」「青々とした木の下」 バアル礼拝の行われた場所。
21節 「ぶどう」 たくさんの実を結ぶぶどうは、神に祝福されたイスラエルの象徴。
「雑種」 異教徒との結婚によって心が神から離れたことを表す。
22節 「ソーダ」「灰汁」 心の悔い改めが問題になっており、体だけを洗っても意味がない。
23節 「谷の中」 バアル礼拝の行われたベン・ヒノムの谷。性的な狂乱が儀式として神の礼拝に入り込んでいた。これについてユダの民は、「あくまで神礼拝のなかに新たな慣習を取り入れただけであり、バアルに従ったわけではない」と弁明する。
「すばやい雌のらくだ」 性的に堕落した民を、興奮して走り回りながら雄を探す交尾期の雌にたとえている。
24節 「荒野に慣れた野ろば」 飼い馴らされていないので、抑制が利かないことのたとえ。
25節 「はだしにならないよう、のどが渇かないようにせよ」 荒野で死なないための最低限の常識さえも、情欲に取り付かれた者たちの耳には届かない。
34〜35節 「いのちの血」「押し入るのを」 神は律法の規定(出エジプト22章2節)を例に挙げ、民の不正は明らかであることを示す。
37節 「両手を頭にのせて」 恥や悲嘆を表す動作。