預言書の書かれた目的として次の3つがあり、ここでは主に 2. と 3. について述べる。
1. 神の主権と支配を表すこと
2. 信仰を強めること
3. きよめと奉仕に導くこと
預言は神の言葉であり、必ず実現する。そして、預言は神が全宇宙を支配し、未来を告げる力を持った偉大な方であることを証する。このような神の偉大さに触れ、これまでの預言が正確に成就してきたことを知るとき、私たちは力を受ける。「私の信じる神はこれほどまでに偉大な方である」と喜ぶことができる。そして、私たちの将来についても、「必ずこの預言(御言葉の約束)のとおりである」と希望を得る。この希望が、困難のなかにあっても、信仰を強めるのである。
子どもは、ヘンゼルとグレーテルや眠れる森の美女、白雪姫といった、途中ちょっと怖い部分のあるストーリーを好む。子どもがそのような不安で落ち着かない恐怖感を楽しむことができるのも、最後にはすべてがうまくいくことを知っているからだ。
私たちは今、どのようになるかわからない時代に生きている。しかし、道の途中で一時的な不安におびえるのではなく、キリストとともにある人生を楽しむことができる。なぜなら、私たちはこの「人生」という物語の結末を知っているからだ。預言書のなかに、イエスキリストの福音と、約束の天の御国がはっきりと語られていることを信仰をもって受けとめるとき、私たちは大きな希望を得る。
曖昧な預言、秘められた預言を受けとめるには、信仰がいる。後に神ご自身が光を当てて明らかにしてくださると信じることが求められるからだ。
神は、私たちが希望を抱くのに十分なだけの啓示をくださった。他方で、敷かれたレールの上を機械的に歩む運命論者にならないために、すべてを明らかにはされなかった。
預言は信仰を強めるために書かれたのであり、預言が信仰に取って代わるものではない。最後には神が完全な支配と平安を与えてくださるという預言、この約束を信じるときに、私たちの信仰は大きな力を得る。
預言の成就する時が明確にされていないことによって、クリスチャンはきよめと神への奉仕への思いを与えられる。キリストがいつ来てもいいように準備しておくことが求められるからである。この希望は私たちをきよめる。ヨハネはキリストの再臨について述べた後、次のように結論づけた。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストがきよくあられるように、自分をきよくします」(第一ヨハネ3章3節)。この御言葉は、預言の目的を要約している。説教であれ予告であれ、預言の目的は人が神の前にきよい歩みをすることである。
神の預言の啓示を、ただ未来がこのように流れていくという事実だけを記した言葉ととらえるなら、神に対して高慢な態度であるといえる。ある人々は預言が実際に何を示しているのかという問題を解決するために多大な努力と時間を費やす。しかし、もし単に「未来を知りたい」という自分の知的好奇心を満足させるだけで、預言を通しての霊的な成長を求めないなら、無意味な自己満足に終わるだろう。神が中心にあってこそ、預言の価値はある。
神は、未来に対するメッセージを通して、現在の私たちの生活に影響を与えたいと願っている。神が聖書の中に預言書を置いたのは、ご自分がいかに遠い未来まで見通しているかをあらわすためだけではなく、それを読む私たちの現在の生き方が変わることを願ってのことである。
このように、預言は、神の主権と支配を明らかにし、神の民が神へのまったき信頼を置くように励まし、きよさと奉仕への思いを与えるとき、その目的を果たす。
【1〜7節】 主の報復
【8〜16節】 怒りと祝福
【17〜25節】 新世界の出現
「新しい天と新しい地」(17節)については見解が分かれる。死の存在を否定せずに寿命について言及していることから(20節)、地上における千年王国(黙示録20章)であるとする見解が一方にある。他方、黙示録21〜22章の幻はイザヤ書66章を踏まえた預言であると捉え、新天新地は天の御国であるとする見解もある。ただ両者とも、無から有を造り出す絶対的創造のみわざの延長線に、贖いのみわざがあると考える点では共通する。すなわち、罪人を聖い神の子どもとすることは、まったく新しい者に造り変える再創造と解するのである。
【65章の脚注】
1節 「わたしの名を呼び求めなかった国民」 キリストの贖いが全世界に及ぶことを示す。
3〜5節 一連の行為は偶像礼拝を指す。
8節 ぶどうの房のなかに少しでも甘い汁があればそれを損なわないように、神は彼らのなかに救われる者を残しておいた。「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。・・・今も、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11章1〜5節)
11節 「ガド」「メニ」 前者はシリアの幸運の神、後者はアラビヤの運命の神。
20節 長寿は神の祝福の象徴。
24節 神との関係の回復。特別の配慮と愛が注がれていることを表す。
25節 神の新しい創造は、堕落以前のエデンの園に勝って豊かな世界である。
【1〜4節】 形だけの礼拝者に対する裁き
【5〜9節】 神の民の誕生
【10〜17節】 神の民の祝福
【18〜24節】 主の栄光のあらわれ
66章は、神の裁きと祝福を交互に織り交ぜながら、神の至高性、約束の来臨について語る。
神はユダの民が真の礼拝を行っていないと語る(1〜4節)。神は決して、神殿がなければ礼拝できないとか、いけにえがなければ悔い改めもないとは言わなかった。真の礼拝者は、砕かれた悔いた心を携えて、それぞれの場において神の御前に出る。
主の家の山の幻(18〜20節)は、2章2〜4節と共通する。主の家の山の丘、すなわちシオンの丘あるいはエルサレム全体についての終末預言である。新しいエルサレムが、全世界の礼拝者の中心になる。主は、イスラエルの神であるだけでなく、全世界、全被造物の神であることが世界中に伝わり、主の栄光が全世界に輝く。そして、神の完全な支配が実現し、真の平和がもたらされる。