第41木曜 イザヤ書57章〜59章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 56章に続き、57章1〜13節まで、イスラエルの指導者の罪を指摘している。特に偶像礼拝の罪が指弾されている。「あなたの義」(12節)とはまったく皮肉な表現である。14節からは、神の民が主に近づくための霊的な道の備えが語られている。彼らは執拗に罪を犯し続け、罰を受けたにもかかわらず、主は彼らを癒そうとされる。しかし主を退け続ける者たちに対しては、厳しい警告の言葉が投げかけられている(20〜21節)。
 58章では、偽りの信仰と真の信仰とが対比されている。人々は宗教的熱心さを誇り、自分たちの義を主張していたが、それが形式的なものにすぎないことを鋭く指摘している。自己満足の断食などではなく、むしろ愛によって社会に正義と公正が打ち立てられることこそ、主が求めておられる断食であることが語られる。
 59章では、指導者のみならずユダの民全体のなかにも蔓延していた罪が指摘されている。神が人々の祈りに答えられないのは、主が偶像のように無力だからなのではない。彼らの罪が神と人とを隔てているのである。罪のなかにあり続ける人々が作り出す社会の悲惨な状態を通し、民全体を覆っている罪が指摘されている。そのようななかでイザヤは、9節以降、民全体のなかに自らを置いて、罪を告白し、執り成している。そして15節の後半からは、主の答えとしての決意が語られている。その答えとは報復、そして贖い主の到来である。


【信仰告白】

[2] 使徒信条