今日の箇所は驚くべき言葉で始まっています。
主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。
「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」
(45章1節)
クロスとはペルシヤの王です。彼は紀元前539年に新バビロニア帝国を攻撃し始め、その年の10月に新バビロニア帝国を陥落させ、凱旋将軍のように入城しました。このクロス王のおかげで、イスラエルはバビロン捕囚から解放され、自分たちの国に帰ることができるようになるのです(45章13節)。
しかしここで驚くべきなのは、主はこのクロスをして「油注がれた者」と呼んでいることです。少なくともクロスは、真の神様を知りませんでした。
わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。
あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
(45章5節)
でも実際は、このこと自体が主の偉大さを証明しているのです。主は誰でしょうか? このお方は、光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する、すべてを造られるお方です(45章7節)。またこのお方は、天を創造し、地を形造り、これを仕上げられたお方でもあります(45章18節)。このお方はすべての歴史を支配しておられるゆえ、異邦人の王でさえ、ご自身の目的のために用いることができるのです。
私たちもそのことを信じるでしょうか? 私たちが助けを必要とするとき、その人自身は主を知らなくても、教会に行っていなくても、聖書読んでいなくても、主がその人を用いて、私たちに必要な助けを与えることができるのです。クリスチャンはときに傲慢になってしまいます。主は、意外な人を通して、私たちを助けられるかもしれません。
イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。
(45章15節)
この言葉は、主がクロス王のような異邦の民を通しても働かれることを意味していますが、それと同時に、主が偶像とは全く性質を異にしていることも意味しています。偶像は立派な外見を持っていますが、その偶像には、人を助ける力はありません。それどころか、人の重荷ともなります(46章1〜2節)。それに対して主は、むしろ「ご自分を隠される」、目には見えない、霊的なお方ですが、この方には、本当の意味で人を救う力があるのです。
わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
(46章3〜4節)
何という慰めでしょうか? このお方は、私たちがまだ母の胎内にいるときから、しらがになっても、私たちを愛し、背負い、救い出してくださるお方なのです。一瞬たりとも、私たちを離されることはありません。あなたはこの主に、全幅の信頼を置いていますか?