昨日の43章19節をもう一度、新共同訳で引用しましょう。そこには「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」とありました。特に「今や、それは芽生えている」との言葉が印象的でした。救い主はやがて来られます。しかしもう、その新しいことはすでに始まっているのです。その新しい時代の幕開けに際して「今」イスラエルの民は、もう一度、何を確認すべきするべきなのでしょうか?
今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
(44章1節)
イスラエルがまず確認すべきなのは、自分たちが主によって選ばれた民であり、主のしもべであるということです。逆にいえば、主こそが自分たちの神であり、自分たちは主のものであるということです。この主は、いったい、どのようなお方なのでしょうか?
あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主・・・。
わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。
恐れるな、おののくな。・・・ほかに岩はない。わたしは知らない。
(44章2・6・8節)
まず主は、ご自身のことを「あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主」であると紹介されています。主は私たちをも母の胎内にいるときから形造り、守ってくださいます。このお方は天地万物を創造された神なのです(44章24節)。
また主は、ご自身のことを「初めであり、終りである」とも紹介されています。これは主が永遠なるお方であると同時に、地上の歴史をも支配されているお方であることも意味しています。
イスラエルの民のなかには、自分たちが捕囚になったことにより、主が自分たちを見捨てたと感じている者がいました。私たちのなかにも、そう感じている人があるかもしれません。
しかし主は御心にしたがい、すべてのことを益としてくださるお方なのです(ローマ8章28節)。
そして最後に主は、ご自身のことを「岩」であるとも紹介されています。「岩」とは「安全」と「保護」の象徴です。この主が私たちを守られるのです。そして主は「このような神が、ほかにあろうか?」と問いかけているのです。もちろんいません。
しかし、イスラエルは今までにも何度となく虚しい神々(偶像)を慕い求めました。
偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。
彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
(44章9節)
偶像の正体とは、いったい何でしょうか? それは、鉄や木から人間によって細工されたものなのです(44章11節)。人によって造られたものが、人を助け、人を罪から救うことができるでしょうか? いいえ出来ません! いくら「私を救ってください。あなたは私の神だから」(44章17節)と祈ったとしても、それはむなしい行為なのです。
私たちも、ともすれば、この世の虚しいものを頼りにしていないでしょうか?
まことの主は、こう言われます。
わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。
(44章22節)