今日の箇所で主は、バビロン捕囚後、イスラエルを救うために来られるメシア(救い主)について、イザヤを通して語られます。主はイスラエルに「新しいこと」をなさろうとしているのです(43章19節)。しかしこう話すとイスラエルはすぐに、ダビデのような政治的・軍事的に長けた、力強い王の出現を期待したことでしょう。しかし主が約束されるメシアは、そのような人間的な基準とは大きく違った、油注がれた方(42章1節)でした。
彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。
こうして見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。
(42章2〜4・7節)
これこそ真の救い主の姿です。何と柔和な救い主の姿でしょうか! もうおわかりだとは思いますが、これはイエス・キリストのことなのです(マタイ12章18〜21節参照)。この世の権力者は、大声を張り上げ、いたんだ葦のように弱った民の心をへし折り、風前の灯火のような民の希望を吹き消してしまうでしょう。しかしこの救い主は、民を支配するのではなく、柔和と謙遜によって民の目をひらき、十字架の愛によって、あらゆる束縛から民を解放してくださるのです。この方を思うときに、私たちの唇には、自然と賛美が生まれます。
主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。
海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。
荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。
セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。
主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。
(42章10〜12節)
「主に向かって新しい歌を歌え」とありますが、「新しい歌」とは何でしょうか? それは、単なる新しいメロディーの曲という意味ではありません。そうではなくて、この救い主に出会い、暗闇から光に、絶望から希望に移されたことを感謝する歌なのです。イザヤの時代のイスラエルの人々は、まだこの救い主を見てはいませんでしたが、信仰によって「今や、それは芽生えている」(43章19節・新共同訳)と信じることができたのです。
私たちもまた、試練のなかで、まだこの光が見えないときもあるでしょう。しかし、そうであっても、信仰によってこの方を仰ぎ見、心からの賛美をささげることができるのです。
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
(43章2節)
そして何よりも、私たちは大きな主の愛を覚えて、心からの賛美をささげたいものです!
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
(43章4節)