前日の36章は、アッシリヤのエルサレムに対する、挑発と陰謀について記されていました。そのやり方は卑劣で、偽りのうわさを流し、ユダの民の士気をくじこうとするものでした。ラブシャケはエルサレムを包囲し、大声で、しかもわざとユダの言葉で、こう叫びました。
ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを救い出すことはできない。
ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。
ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。
(36章14〜16節)
まさに「こっちの水は甘いぞ♪」と言っているかのようです。しかし、人々は黙して答えませんでした。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからです(36章21節)。私たちも、ときに、自分に不利なうわさを、流される経験をするかもしれません。そんなときは「彼らに答えるな」です。そして「祈りをささげてください」(37章4節)。もし私たちが、慌てふためき「火消しに奔走する」なら、かえって火に油を注ぐことになるでしょう。日本のことわざにも「人のうわさも75日」とあります。今日の箇所にも、うわさを流した張本人が、うわさによって滅びる様子が記されています。
今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。
彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。
(37章7節)
主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、185,000人を打ち殺した。
人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。
(37章36節)
アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。
(37章37節)
さてその後、ヒゼキヤは病気になります。イザヤは「あなたは死ぬ。直らない」(38章1節)と彼に死を宣告しましたが、ヒゼキヤは、主の憐れみによって寿命を15年増し加えられたのです(38章5節)。それを聞きつけたバビロンの王は、ヒゼキヤに手紙と贈り物を届けました(39章1節)。ヒゼキヤは非常に喜び、バビロンからの使者に、宝庫の金銀、高価な香料、油、いっさいの武器など、国の財宝をすべて見せてしまいました(39章2節)。それを聞いたイザヤは、次のように預言しました。
見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。
(39章6節)
私たちは、自分の賜物を積極的に、主と教会のために用いるべきですが、決してヒゼキヤのように、賜物を「見せびらかし」てはいけません。それは人に「ねたみ」という罪を犯させるからです。それにしても、このようなイザヤの預言を聞き「自分が生きている間は、平和で安全」と思ったヒゼキヤは、もはや王としての自覚を失っていました(39章8節)。