33章にて、一連のユダに対する「わざわいの宣告」は終わりました。そして34章には、彼らを悩ませ続けた「諸国民とエドムへの徹底したさばき」が記されています。そのさばきは、あまりにも壮絶であり、また徹底したものです。それがたとえ「敵」に対するさばきであっても、私たちは思わず目を覆いたくなり、背筋が凍りつきます。
主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。
主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。
(34章6節)
またその結果、エドムは廃墟となってしまいます。
ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。
主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。
そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、ジャッカルの住みか、だちょうの住む所となる。
(34章11・13節)
現代の教会は、「神様の愛」をことさらに強調する傾向があるといわれます。しかし私たちは、どれほど「神様の義」を理解しているでしょうか?
主はかつて、アブラハムに次のような契約を与えられました。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世12章3節)。つまり、エドムの反逆は、イスラエルに対する反逆というだけでなく、イスラエルを選び、愛しておられた「主」への反逆であったのです。主に敵対する者に対する、主のさばきは、徹底したものです。
私たちは、この主に対する「健全な恐れ」を失ってはいないでしょうか? それを失わないためには何が必要なのでしょうか? 聖書にはこうあります。
主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。
それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。
それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。
(34章16節)
私たちが、主への健全な恐れを失わないために、私たちは「主の書物を調べて読む」必要があります(申命31章26〜29節参照)。なぜなら、聖書は、「神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」だからです(第二テモテ3章16節)。また、この主と主の言葉に信頼する者には、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」のです(詩篇30篇5節)。続く35章には「シオンの未来」が預言されています。何という慰めでしょうか!
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
主に贖われた者たちは帰って来る。
彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。
楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
(35章1〜3・10節)