今日の31章と32章は、28章1節から続く「わざわいの宣告」の、第5のグループにあたります。また33章は、その第6のグループにあたります。それらのグループでは「ユダに対するさばきと約束」が語られています。今日の箇所は、次の言葉で始まっています。
ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。
彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
(31章1節)
ここに記されているのは、迫りくるアッシリヤの脅威を前にして主により頼まず、エジプトとの軍事同盟に依存しようとしたユダの姿です。しかし主は、そんな彼らに言われます。
エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。
主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。
(31章3節)
時に私たちも、同じようなことをしてしまうのではないでしょうか? 本当に頼るべきお方に頼らず、空しいもの(人)に頼ってしまうのです。イスラエルにとってのエジプトは、特別な存在でした。かつて彼らは、モーセによってエジプトから導き出されたにもかかわらず、何かあるとすぐにエジプトを振り返り「あぁ、あの頃は・・・」と懐かしんだのです。私たちも、すでに主によって救い出されているというのに、以前の生活や、以前頼りにしていたもの(人)を引っ張り出して、すがってしまうことがあるのです。しかし、それは虚しい行為です。そのようなことを続けていると、その頼っている存在も含め、みな共に滅び果ててしまうのです。私たちが本当に頼るべきお方は、どなたでしょうか?
万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。
(31章5節)
主こそ、私たちを守られるお方です。詩篇91篇4節にもこうあります。「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである」。
どうか私たちが苦難のとき、こう叫ぶことができますように。
主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。
朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。
(33章2節)
私たちが、このように心から叫び、祈るとき、私たちは次のことを知るでしょう。
まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。
(33章22節)