イザヤ書24〜27章には、神の裁きと救いの両面が語られていきます。
24章1節に「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる」とあり、神の裁きの預言が語られていくことがわかります。神の裁きを物語る内容は数多くの表現で記されていきますが、そもそも神の裁きが下されることとなった原因はどこにあるのでしょうか。それは、人が神の律法を軽んじ、神との永遠の契約を破ったことによります(5節)。しかし、神の裁きが下るなかにもわずかな者が残され(6節)、そのなかから神の御名をあがめて賛美し、神の栄光をあらわす者たちが起こされるという(15〜16節)、憐れみ深い御業についても言及されているので、神にある希望の光を見ることができます。
25章には、神がなされる御業を証しし、賛美する言葉が語られていきます。神がなされる御業には、これまで見てきたような裁きと同時に救いも含まれます。たとえ神の民が諸国民によって支配されていたとしても、神はそこから御自分の民を救い出されます。そして、その神の救いの御業は神御自身のうちにあるご計画に従って行われていきます(1節)。したがって、そのご計画には偽りも狂いもありません。神のなさる確実な救いの御業をほめたたえることこそ真の喜びの声となり、生きる力そのものとなります。こうした御業について「主が語られた」(8節)のですから、神の主権によって確かに裁きと救いが行われることを知り、救いの確かさをも抱かせていただけます。
26章1節にある「その日」は、神に背を向ける者たちに対する裁きが行われる時であり、その時に神の民は救いに入れられます。高い所に住む者(5節)は、世の力により頼む者です。そして、世の力に頼る者を神は裁かれます。その反対に、「どこまでも主に信頼」(新共同訳3・4節)する者たちは、神が備えてくださる場所に入り、神と共にあり、本来の平和と喜びと希望のなかに憩わせていただけます。神に信頼することこそが、本来のあるべき姿です。神への信頼が、自分の人生を肯定し、目の前にある自分の人生に希望を持って歩むこと(8節)と結びついていくのです。