諸国に対するメッセージが続きます。
21章1〜10節のバビロンに対するメッセージは、「倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた」(9節)から、滅びのメッセージだと分かります。また5節には、バビロンと手を組んだ者たちの安堵の様子が記され、人の力による結束こそ最も確実な力と思わせる表現が出てきます。しかしそれは、人の手に頼る平和の獲得が確実なのか、それとも神に頼る平和の獲得が確実なのかを、神の民に深く考えさせる内容となります。
21章11〜12節のエドムに対するメッセージにおいて、新改訳「夜回り」、新共同訳「見張りの者」と言われているのは、預言者のことであり、その預言者から、単調に見える時間の流れにおいて神からの試練が現実にある、という厳しい現実が語られます。
21章13〜17節のアラビヤに対する託宣に、「まことに主は私に、こう仰せられる」(16節)という言葉があり、神の主権を思い出させます。世界を治める神の存在を豊かに指し示しているとも言えます。
22章は、幻の谷と称されるエルサレムとユダに対して神の裁きがあることを示すメッセージとなっています。それは5節の「なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では、城壁の崩壊、山への叫び」などからわかります。エルサレムとユダは、「なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、『飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから』」(13節)とあるような生き方をし、神からの警告(12節)を示されていても、自分の手による安心を喜び続けていく。そうして神の語りかけを無視して立ち帰らないときに、その罪は赦されず(14節)、神の裁きを招いてしまうのです。
23章はツロに対してのメッセージで、ここにも神による裁きの内容が色濃く出ています。フェニキヤの主要都市としてのツロとシドンの名が出てきて、貿易などによる繁栄が滅んでいくと語られています。物に頼る考え、偶像の神に頼る考えは、いつしか神の裁きの対象となり、滅びへと向かわされます。それをご計画し、実行されるのは、まぎれもなく主御自身です(8〜9節)。
15節以下には、ツロの悔い改めと新しい生まれ変わりの姿が預言されます。神を知らずに生きている者たちにも、神の主権によって恵みがもたらされることが示されていきます。