諸外国に対するメッセージが続きます。
ダマスコはアラムという国名と同じものとしてとらえられるほど重要な都市です。このダマスコと北イスラエルのエフライムとが地理的にも近かったために、密接な関係にありました。その密接な関係は、生ける真の神に信頼を置くことよりも両国の同盟を優先し、そこに揺るがない生活の安全性を求めていきました。(17章)
そこでイザヤは、人間の力や知恵に頼ることが空しいことを明らかにします。その手で生活の安心を得ようとしても、実際に事を決定し、実行されるのは神御自身です。したがって、神を忘れる者たちが好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさし、植えたものを育てても、神は病といやしがたい痛みの日に収穫を奪い取られると警告されるのです。
ダマスコとエフライムよりも力のあったクシュ(エチオピア)のことが18章で取り上げられています。ここでは、神の呼びかけ(1〜3節)、裁きの報告(4〜6節)、神の主権をクシュ(エチオピア)が認めることの預言(7節)が語られます。クシュに対するメッセージは裁きのメッセージだけではないようです。
19章からのエジプトについては、クシュ(エチオピア)との関係も触れられ、やはり両国が生ける真の神を忘れて歩むために、アッシリアを通しての裁きが預言として語られている。しかしながら、19章16〜25節には神の裁きの後にエジプトの悔い改めによって神を認めるようになるとの回復の預言があります。エジプトであったとしても、神の御前に悔い改めへと導かれるならば、真の平安のなかに招き入れられる余地があるのです。これこそ神の深い憐れみに他なりません。