昨日のところで、雅歌という書物が「キリストと教会の愛の関係」を示していることを確認しましたが、一方で、男女の愛の麗しさと大切さを見ることができるのも、この雅歌です。愛し、愛されることのすばらしさ、その魅力ということも、見ることができます。
現代は「言葉が軽い時代」などといわれることがありますが、ここに記される言葉では、その愛の表現において、ほめたたえる言葉が「駆使」されているということができるでしょう。「いかに愛しているか」ということを、口先だけでなく表現するのです。
聖書は、間違った男女関係を禁ずるだけでなく、正しい男女関係、夫婦関係の大切さについても、しっかりと繰り返し教えます。この雅歌では、愛し合う男女の豊な感情、愛の深まりが、美しく表現されています。神のご計画のうちに導かれる夫婦にとっては、性愛をも含めた情感豊かな男女の愛も、祝福され、豊かな関係を築いていくものとされるのです。
清い男女関係が重要であるとともに、夫婦関係においては、その深まり、愛し合う感情を育て、想いが他の方に向かないようにすることが大切なのです。互いの人格そのものを本当に愛し合うことは、きちんと進められるべきで、お互いの存在を本当に喜ぶことが大事なのです。雅歌には、相手の外観をたたえるところをいくつも見ることができますし、ときには相手の姿かたちをほめるのも大切だと思います(もちろん外観がすべてではありませんし、注意を要する場合もあるでしょうが)。
しかし、いずれにしても、男女を互いに愛する愛は、真実の愛でなければいけないので、よく言われる駆け引きの愛、感情の赴くまま欲を満たすだけの愛、というのは間違いといわなければならないでしょう。世界の様々な文化のなかで、男女の関係が乱れる社会にあっては、聖書の示す本来あるべき男女の愛の在り方は、歴史的に見ても理解されにくい状況にあります。私たちの住む日本でも、現代はそれに拍車がかかるばかりです。
しかし、真実の愛は、そのような一時的な感情を超えて存在するものなのです。ですから、充分注意をしなければなりませんけれども、正しい夫婦の関係と、それを築き上げるプロセスにあっては、その感情の想いをより育てていくことも、神様の与えてくださる賜物だと思います。
夫婦となる男性と女性は、本当に愛し合うこと、しっかりと深く愛し合うこと。それが神様の創造の業から求められるものです。当然感情も伴うことであり、愛を豊かに表現することです。残念ながら、そのようなあるべき夫婦の関係も、時間の経過によって薄くなってしまいがちであることは否めません。そのような風潮が、結婚という、神の定められた制度をも、魅力のないもののように扱うのです。夫婦の在り方、本当の愛の意味は、しっかりと聖書全体から学んで理解しなければなりません。
さて、今日のところからは、1箇所だけ取り上げてみます。
「女のなかで最も美しい人よ」(5章9節、6章1節)
「キリスト」と「教会」の関係においては、真の教会の信仰における確かな歩みが「最も美しい」ということになります。夫婦の関係においては、相対的にナンバーワンということではなく(もちろん容姿のことでもありません!)、神様の与えてくださっている伴侶であるという真実のなかで、お互いにとって「最も美しい」といえる存在ということではないでしょうか。将来結婚したいと願っている方にとっても、お互いに「最も美しい」といえる伴侶が導かれるよう祈ることも大切だといえます。