この雅歌という聖書の書簡は、本文の意味をそのまま理解するのが難しく感じられます。「男女愛の歌が、なぜ、神の真理を語る聖書に記されているのか?」という疑問を、多くの人が抱くようです。
内容をそのまま読む場合には、確かに多くの人が感じるとおりでしょう。ただ、この書物は、古来、ユダヤ教において、「神」と「神の民」の間の愛について歌われていると理解されてきました。ですから、キリスト教においても、これは「キリスト」と「教会」の愛の関係を示していて、そのように理解され、解釈されるべきものであることがわかります。
そうだとすると、ここに出てくる表現から教えられることを考えることができるので、その理解を基本にして読み進めていくのが相応しいでしょう。
神と、私たち人との愛は、「純粋」で、ある場合には「単純」であるといってよいでしょう。難しいことを挟まずに、その愛が存在するべきことである、ということです。
キリスト教は、決して短いとは言えない伝統と歴史のなかで、学問的に研究・分析を深めることによって、神学というものを発達させてきました。それはそれで大切な研究ですし、そのような学問的な掘り下げや、スタイルがあったからこそ、福音の理解も進んだのは確かです。
ただ、ここで開かせていただいているところでは、そのような、学問的とか理知的であることは強調されません。単純に、純粋に、ときには感情的に、神様への愛と、救い主イエス様の愛に感謝をして、その愛の思いを深め、浸り、気持ちを寄せる。そういうこともなされてよい、と示しています。
これは、もちろん、信仰生活、教会生活において、どちらかに極端になることではありません。偏りは間違いを招くので注意が必要であり、そのような意味でも、聖書は様々な側面から、神学を、感情と知性のバランスをもって語っています。そういうバランスのなかで、私たちも、感情の歌と思いを、知性と同じく持っていくことは、あってよいこと、いやむしろ、なくてはならいない重要なことであると思うのです。
以下、すべてを細かく見ていくことは量の関係で難しいので、2つの箇所だけピックアップします。
「真心からあなたを愛しています」(1章4節)
非常にシンプルな言葉でありますが、主の真実のなかで語られるこの言葉は、本当に深い愛の言葉であるのです。「真心」という言葉を、昨今では耳にすることが少なくなったようにも思います。しかし、あえて、そのような現代日本の私たちに、真心をもって、神様と自分をとらえるように、と示しているのです。
愛し、愛されることのすばらしさ、その魅力をここでは教えています。
「あなたの愛は、なんと麗しいことよ」(4章10節)
私たちのうちに「神様を愛する愛」がより豊であるならば、それを主ご自身はたたえてくださるというのです。神様が私たちを愛してくださっている、という感謝のなかで、その愛に単純に応えることで、その応答に純粋に神様ご自身が喜び、そして、それを称賛してくださるのです。