この伝道者の書は、「知恵」ということを要所要所で示していますが、このクライマックスのなかで、その中心について教えています。
日本の社会において、一般的には、「創造者」「創造主」は存在しないと考えるほうが知恵のあることと考えている人が、圧倒的に多いように思えます。そして、創造主の存在を信じていることが、あたかも「知恵のない」ことのように思われているわけです。
しかし、真実は違うことを聖書は繰り返し証しています。
創造主である神を知った人は、9章2節で「すべての事はすべての人に同じように起こる」と言われるとおり、神を信じるか、信じないかによって、お金持ちになったり、特別健康であったり、ご利益があったり、ということはないことを知ることができます。
しかし、そうでない人たちは、そのようなことが理由で「神などいない」と結論づけてしまうことがあります。神が存在するのであれば、神を受け入れる人だけが、ご利益を得ることができると、あまりにも単純に結論づけてしまうのです。
ここでは、神様がそういうお方ではないことを、はっきり示していることがわかります。私たちに本当の知恵=真実の知恵を持つべきだということを教えています。
1つ目は、9章で教えているとおり、「正しい人」も「悪者」も、そのことが理由で、受けるものが左右することはない、ということです。まさに「ご利益宗教」とはまったく違うところです。
2つ目は、宣教を継続することが、知恵ある者の使命であるという側面です(10章)。「あなたのパンを水の上に投げよ」(11章1節)は、伝道の活動にたとえられるところです。
3つ目は、最終的に結論として、神に従うことが最も知恵のあることで、それが「すべて」であるということです。そして、それは裁きを伴うことを忘れてはならないのです。自分の見える範囲での世間から蔑まれていることを理由にして、この知恵を受け入れないという結論を出すのはナンセンスです。
私たちの住んでいる日本は、世界でも、最も宣教の困難な地だと言われます。国は豊かで、経済的に不況といっても食べるに事欠くことはまずなく、治安も比較的良い社会です。しかし、この先進的な社会であることが理由で、ある人は「日本は世界でも最も知恵のある国民であり、社会である!」「他の国の多くの国民のように『神』の存在など認めている人たちより、自分たちのほうがはるかに勝っている!」と認識してしまっています。
しかし、本当にそうでしょうか。
聖書の説明している永遠の視点からするならば、そこに落とし穴があると考えられます。真の神にある知恵、真実を見失いながら、ただ相対的なものの見方のなかで、「恵まれている」ということだけで、「それがすべてだ!」と判断することでは、かえって、それが邪魔をして、真理から遠ざかってしまうこともあるのです。
キリストにある者、主にある教会が、どんなに世間に拒まれ続けようとも、小さい群れであることが長く続こうとも、人の目から見て成功と思われるようなことがなかったとしても、私たちは、この社会に、福音である「真の知恵」を伝えていくことを、希望をもって続けるべきなのです。神様の存在を伝えること、宣教というのは、「時が良くても悪くても」(第二テモテ4章2節)、状況に左右されずに継続すべきものだからです。
「神の裁き」に恐怖を抱くゆえに信仰を持つことは、ある意味、正しい信仰とは言えないのですが、「すべてを正しく裁かれる神様がいらっしゃる」という確かな視点を持つことは必要なことです。
真実なお方を知ることに喜び感謝しつつ、本当の意味で、全能であられる神を畏れながら、歩みを進めてまいりましょう。