今日の個所においても、あらゆるものの虚しさが説かれます。宗教の虚しさ(5章1〜7節)、政治の虚しさ(5章8〜9節)、富の虚しさ(5章10〜14節)、人生そのものの虚しさ(6章)などが延々と続きます。6章12節に重要な問いがなされています。「だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを」(6章12節)。死の問題が解決されないとしたら、何がいったい正しいことなのか、また何が人生の意味なのか、誰も答えることができないではないか、との問いかけです。
その問いかけのテーマを引きずりながら、7〜10章には、死に向かう人間にとって「何が善であるか」ということの箴言のような言葉が続きます。
8章には、人生の不条理といったテーマも読み取れます。著者は、貧しいか、富むか、長寿か、短命か、その如何にかかわらず、神を敬う信仰者こそしあわせであると知っています。しかしながら、なお正しい者に悲しむべきことが起こり、悪者に喜ばしいことがおとずれるという現実を目の前にしては、「これもまた、むなしい」と世の不条理を嘆くのです(8章12〜14節)。
世は不条理なことが常です。私たちの身のまわりにも「なぜ」ということがしばしば起こります。あるいは、世界に目を向けると、不条理な苦しみにあえいでいる人がたくさんいます。彼らを助ける力のない自分に幻滅するときもしばしばです。伝道者の書は、世にある「不条理」という問いを投げかけます。
しかし、この不条理な苦しみに、答えや意味をお与えになるのは、イエス・キリストではないでしょうか。主イエスも、実に不条理な十字架を苦しみぬき、死を遂げました。そして、3日目によみがえったのです。主イエスは、世の虚しさに翻弄され、「空の空」と嘆く人間の弱さをご存じなのではないかと思います。主イエスご自身こそ、十字架という不条理の前に、血の滴るような汗を流しながら祈ったからです。そして十字架上で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ!(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」(マルコ15章34節)と叫ばれたからです。