「伝道者」という語は、ヘブル語ではコーヘレスで、「集会を招集する者」という意味で、ある種の職務を指していると考えられます。その著者や年代については、様々な解釈があります。詳しいことは省きますが、「伝道者の書」は実にミステリアスであり、それゆえに興味深い書であるということだけは言えます。
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(1章2節)
「空」とは、ヘブル語で「ヘベル」で、「息」という意味もある語です。つまり「空の空。すべては空」とは、吐く息が一瞬に霧散するかのように、すべてのものはやがて消え去る虚しいものにすぎない、という意味です。著者は、「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」と、すべてを否定します。各時代に起こる様々な新しい文化、政治、事業・・・それらも著者の目には、何一つ新しくはなく、虚しいばかりです。
「むなしい、むなしい」と一切を否定し去る言葉のなかに、ある種の清涼感のようなものを感じるのは、私だけでしょうか。明治生れの旧約学者であり、詩人でもある松田明三郎という人は、次のようなことを記しています。
「われわれは此の大胆なる厭世的宣言が、世界に於て最も信仰深いと云われるヘブライの民族の一詩人に依て叫ばれ、それがまた、旧約聖典の中に収められておることを思う時、一層驚嘆せざるを得ないのである」
この「驚嘆」は、すべての信仰者の「驚嘆」であると思います。伝道者の書は、私たちの心の奥底にも「空の空」という叫びがあることを教え、その心の闇の領域を明るみに出すことによる不思議な癒しを与えてくれるのではないでしょうか。
しかし、伝道者の書が徹底的にすべてを否定する論調には、とまどいも覚えます。知恵や知識を極めても虚しい(1章13〜18節)。快楽を極めても虚しい(2章1〜11節)。いや、そもそも、何を極めようが、極めまいが、すべてのものが向かう「死」というものの前には何もかもがむなしいではないか、というところに行きつくのです(2章12〜17節)。
先取りするようですが、この伝道者の書の結論は、最後の12章13〜14節にあると言われます。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(12章13〜14節)
箴言に通じるような、「神への恐れ(敬い)」をもって、神に従うという実にシンプルな結論に至るのです。しかし、その過程もまた重要なのでしょう。今日は「空の空!」という叫びを存分に味わって、この書を読み進めたいものです。
そして「死」という問題に対する、より明確な答えは、新約聖書のイエス・キリストの福音に待たねばならないということになります。