第37木曜 箴言30章〜31章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 30章は「マサの人ヤケの子アグルのことば」、31章1〜9節は「マサの王レムエルのことば」、31章10〜31節は「賢い妻」というテーマでの詩です。
 「マサ」についての詳細は不明です。アブラハムと女奴隷ハガルの間の子イシュマエル(→イスラム教の聖典コーランではアラブ人の祖とされる)の子孫にマサという名があることから(創世記25章14節、第一歴代1章30節)、箴言の「マサ」とはアラブ人の一部族のことであろうとも言われます。イスラエル王ソロモンの名が冠される箴言に、外国人の作品が挿入されたことの詳しい経緯は分かりませんが、29章までとは趣の異なる箴言となっております。

 特に、30章2〜4節には、「神の超越性に対する人間の無知についての告白」(鍋谷堯爾『新聖書講解 旧約13』207頁)という主題があります。
 4節の「風」と言うのは「ルーアッハ」というヘブル語で、「息」や「霊」とも訳されます。「風を集める」という表現は、ヨブ記34章14節や詩篇104篇29節にもあります。「もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る」(ヨブ記34章14〜15節)。
 ある聖書学者は、これらのヨブ記や詩篇の個所とイメージは同じであろうと指摘します(パーデュー『現代聖書注解 箴言』)。そうであるならば、「風をたなごこころに集める」とは、神こそ生きとし生けるものに生命を与え、そして取り去る(集める)お方であることの表現です。「水を衣のうちに包む」というのは、生命に潤いを与える水(雨)の一切を司る神を表現しています。
 4節には、「この全宇宙を創造し、すべての生命の生死を司るお方は誰か!?」という叫びがあるのではないでしょうか。確かに私たちは「それは神だ」と答えることができます。しかし、それではたして神を本当にわかったことになるのか、とアラブの賢者アグルは問うてくるのです。本当に「あなたは知っているのか?」(新共同訳)と。

 30章5〜6節は、その問いに対する応答のようなニュアンスがあるのかもしれません。
 「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾」(30章5節)
 「神の尊厳は、それ自体人間の理解力を越え、この力をもっては把握することができない。そこで私たちは、かくも偉大な光輝に圧倒されないためには、これをせんさくすることをやめて、この気高さを崇敬しなければならない。そのために私たちに必要となって来るのは、神をその御手の業においてたずね、また考えるということである。・・・中略・・・御言葉は、神をその御業について、まことによく記して私たちを教えている」(カルヴァン『信仰の手引き』新教出版社、11〜13頁)。
 私たちは神を「把握」しようとか、「せんさく」しようとかするべきではなく、「気高さを崇敬」する心で御言葉(神のことば)に聞くべきなのです。箴言全体を貫く主題は「主を恐れることは知識の初めである」(1章7節)の御言葉です。主を恐れ敬うことなくして、神のことばを本当の意味で読むことはできないのでしょう。


【信仰告白】

[2] 使徒信条