「ヒゼキヤによるソロモンの箴言」(25〜29章)の続きです。
ある注解書には、28章10〜28節のあたりには、特に貧しさと富のテーマが多く見られると指摘されています。世のなかには、貧しい者と富む者がいるというのが現実です。その現実のなかで、いかに神の御心に沿ってふるまうか、という知恵を読み取ることができるでしょう。
またそのような現実的なテーマが流れているようななかでも、28章13節のような深い宗教性を感じさせる個所もあります。やはり箴言は、単なる現世利益的な助言ではないのです。
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」(28章13節)
神の前に罪を告白するか、否かが、良い人生を歩む鍵と教えられています。これは現代の信仰者にとっても同様でしょう。神の前には、何一つ隠さず、祈りのなかで弱さをさらけ出してよいのです。いや、そうすべきなのです。祈りが言葉にならないのなら、一言「主よ・・・」と祈ってもよいでしょう。「言葉にならないのです」と素直に祈ってもよいでしょう。神の前に心を隠す必要はないし、そもそも隠すことはできないのです。アダムとエバが、食べてはならない木の実を食べたとき、神から隠れました。ここに罪ある人間の原型があるのです。
また、私たちは教会のなかや、兄弟姉妹との交わりにおいても、ときに罪を告白し合うことがあってしかるべきだと思います(なんでもかんでも暴露し合えばいいということではありませんが)。私たちはともすると、良いことや嬉しいことがあれば、恵みの「証し」だと言って報告します。もちろん、そういう証しも素晴らしいものです。しかし、そればかりが続くとしたら、御利益宗教との差は何なのだろうか、わからなくなるかもしれません。ときには、「自分にはこういう弱さがある、こういう誘惑がある、だから祈ってくれ・・・」と自らの罪を告白するのも、主イエスの赦しや恵みを「証し」することにつながっていくのではないでしょうか。