先日の個所に続いて24章34節までが「知恵のある者の言葉」で、25章1節〜29章27節は「ヒゼキヤによるソロモンの箴言」となります。「ヒゼキヤによるソロモンの箴言」は、ソロモンより約200年後のヒゼキヤ王の時代に編集されたものと考えられます。ある注解書には、ヒゼキヤに大きな影響を与えたのは預言者イザヤであり、そのイザヤ的な思想が25章2節には含まれていると指摘されています(鍋谷堯爾『新聖書講解 旧約13』187頁)。
「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」(25章2節・新改訳)
「事を隠すのは神の誉であり、事を窮めるのは王の誉である」(25章2節・新共同訳)
この2節は、含みのある箴言だと思います。王は、国を治める責任がありますから、あらゆる物事を探り、知識を極めることが、良い王としての誉れを受けることにつながります。しかし、一方で、人間がどんなに知識を極めたとしても、神の御旨を探り極めることはできないのです。
有名な C. S. ルイスは、『悪魔の手紙』(守安綾・蜂谷昭雄訳)という面白い本を書いています。その本に出てくる「悪魔の手紙」には、いかに巧妙に人間を神から遠ざけるかの手解きが記されています。悪魔は、人間が「自分を造ったかたにではなく、自分が造った物に向かって」祈らせるようにすべきと説きます。反対に、人間が「わたしが考えるあなたにではなく、あなたが御承知のあなた御自身に」祈るように意識してしまったら、悪魔は「われわれの立場は絶望である」と言うのです。
ここでルイスが示唆するように、人間はしばしば自分のイメージにおさまるような矮小化した「神」を心に造り上げてしまい、それで「神」をわかったような気になってしまうものではないでしょうか。人間にとって知識や知恵はもちろん大切ですし、それを求めて努力することも大事なことですが、神ご自身の御旨のすべてをはかり知ることはできないのだという謙遜さを欠いてはならないのでしょう。詩篇139篇も思い出します。
主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
(詩篇139篇1〜6節)