「箴言」は、8つの収集物から構成されています(山口昇「箴言」『実用聖書注解』670頁)。
19〜21章は「ソロモンの箴言」に属します。ここにある箴言が、ソロモンの手によって直接すべて書かれたわけではなく、後世の者が編纂したと考えられます。彼自身の手による箴言も含まれたと考えられますし、彼以前や彼以後の箴言も、ソロモンの名の下に編纂されたのでしょう。
箴言には、賢い者と愚かな者、勤勉な者と怠け者、正直者と偽善者、といった正反対の人物が登場します。そして、前者は神の祝福を受けて豊かになり、後者は神から罰せられるのだという個所が多くあります。今日の個所においても、ある者たちは祝福を受け、称賛され、またある者たちは厳しく罰せられ、断罪されている箴言が多くあります。たとえば以下のような個所です。
「怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える」(19章15節)
「正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう」(20章7節)
「勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ」(21章5節)
これらの箴言は一見すると、祝福の道か、罰の道かの二者択一を迫るようにも感じられます。では、これらの箴言は、現代風に言えば“勝ち組”と“負け組”の法則のようなものなのでしょうか。いや、単純にそうは言えないのです。
箴言の底流には、神がこの宇宙、世界、社会のすべてのものを創造され、支配され、保たれ、導いておられるという信仰的な思想があるのです。その意味で、箴言が説くのは現世利益的な助言というような類ではありません。その証拠に箴言の作者たちは、人間の知恵では、はかり知れないことがあることを認めていました。
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」(19章21節)
「主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない」(21章30節)
また、箴言の作者たちは、富や財産、名誉よりも、重要なものがあることも知っていました。
「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」(19章1節)
いかに成功や富を得るかが第一義的なことではありません。あくまで重要なのは、すべてを導く神の意志なのです。神の創造、支配、保持を信じて、誠実に生きていくべきであるという生活が勧められているのです。