人生の歩み方を考えさせる箴言です。私たちは確かな人生を歩みたいと思います。平安をもって、喜びにあふれた人生を歩みたいと願います。そのためにはどうしたらいいのでしょう。努力も、計画性も必要でしょう。しかし、なによりもまず必要なのは、神様の主権を認め、神様を恐れつつ、神様の前で人生の計画を立て、その計画の一つ一つを神の前に広げて、みこころであるかを祈り求めて歩むことです。そして「主にゆだねる」ことです。
「ゆだねる」とは、無責任になることではありません。イエスの母となったマリヤが受胎告知を受けたとき、どんなに不安で、恐れと恐怖に包まれたことでしょうか。しかしそれでも彼女は神のみこころを受け入れ、信頼してゆだねました。イエス様も十字架を前にしてゲッセマネの園で血の汗を流し、もだえ苦しまれました。そして十字架に向かわれたのです。「ゆだねる」とは、苦しみのなかにあっても神の御声に聴従していく信仰の姿勢です。
神の主権を認め、神の御手のなかに生きましょう。そこにこそ確かな人生があるのですから。
この箴言を書いたソロモンは「栄華を極めた」と言われるほどの人物でした。そんな彼が「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(1節)と言うのです。平和とは、争いがないということだけでなく、一緒にいると心に喜びが湧きあがる、そんな愛のある関係です。そのような家庭となるためには、まず自分自身から変わらなければなりません。
神様の御声よりも人の噂話に耳を傾け、人の災害を心のなかで喜び、わいろに心がぐらつき、同じことを繰り返し語り、反抗を好んではいなかったか。友が苦しむとき、その苦しみを分かち合っていたか・・・。
自分自身が悔い改めて、神様の愛に立ち返るなら、まずあなたと神様との関係が平和になり、あなたの心に平安と喜びがあふれます。そしてそのあなたの心にある平和が自然にあなたの家族に流れ出て、家庭に喜びがあふれるのです。
主の平和をもたらす者となることができるように、主の前にまず自分自身が静まりましょう。
人との関係について述べている箴言です。人は他者と交わって生きるように神様によって創造されました。それを拒む者は極端な利己主義者です。人の意見を聞かず、自分の意見だけを主張し、自分が正義であるとする、謙遜に欠けた高慢な姿です。
自分の心を閉じてしまうことによって、人は孤独、劣等感、挫折感に陥ってしまいます。まず、自分が心を開き、家族、友人、師の言葉に耳を傾けましょう。なによりも神のことばに耳を傾け、聞き従うなら、それは「堅固なやぐら」となります(10節)。
「聞く」ということにも注意がなされます。「よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける」(13節)。また判断をするにも両者の言い分をしっかり聞いてから判断するようにと勧められています(17節)。
やはり口を制する者は知恵ある者です。この口によって自分自身が罠にはまることのないように、慎重に、そして賢く、愛をもって時にかなった言葉を発する者、そして時には黙する者となりましょう。