10章から22章まではソロモンの箴言と呼ばれ、箴言の中心部を占める最大の箴言集です。多くは2行からなる対句になっていて、10〜15章では対称的な対句が反意的に述べられています。また、16〜22章では同義的な対句が並び、2行目が1行目の内容を補うかたちになっています。
10章では、正しい者と悪者について対称的に述べられていますが、とくに、ことばによる罪、愚かさについて記されています。また、私たちが声に出さず、心に憎しみを抱いていながら偽善的にこれを隠すことも罪であると語ります。そしてこの憎しみの終着駅は破滅なのです。この私たちの真の心の醜さの反映である憎しみを覆うものは、愛しかありません(12節)。愛によって人は変えられ、愛によって癒され、回復を与えられるのです。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」(第一ペテロ4章8節)。主の愛によって、愛の人と変えていただきたいと祈りましょう。
当時、度量衡が十分に規格化されていなかったため、思い思いのはかりが作られ、不正が至るところで起きていました。しかし「欺きのはかり」はレビ記やミカ書においても禁止されています。神様は、神様の前にささげるものだけでなく、この社会のなかで「欺きのはかり」が使われることもお嫌いになられます。すべての生活が神の前で行われることです。
高ぶりとは「沸騰する」ことを暗示することばから派生しています。これはいつも自分が中心でなければ気が済まない人の心の状態を指しています。サタンはこの「高ぶり」によって堕落しました。
この世は、「正直者は馬鹿をみる」ことと「欺きのはかり」を使うことを奨励するかもしれません。しかし、主はこう言われます。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6章8節)。祝福の道を選び取りましょう。
正しい人は大地にしっかりと根をおろし、芽を出す植物にたとえられています。正しい者は、訓戒や叱責をしっかりと受け取り、神の前に、人の前に誠実で勤勉な歩みをなし、職を持ち、そしてその職が小さく、人の目にはあまりとまらないものであったとしても、それを忠実に果たします。また、神から任された被造物の世界を管理します。
このような人は神からの知恵と訓戒を受け取っているので、嵐が来ても、災害が起こっても、倒れることはありません。神の愛を確信し、生活の根底に神の愛があるので、いつも平安であり、芽を出し、良いものに満ち足りるのです。
そして彼の口から出る、愛あることばによって周囲の者はいやされ、彼の親切な言葉によって喜びを与えられるのです。
今日も神の愛のなかに根ざしましょう。神の愛があなたに平安を与え、そしてその神の愛があなたの周囲の人々に喜びと平安を与えるのですから。