続けて聖書は私たちに、性的な誘惑に対する警告を語ります。
性的な誘惑に打ち勝つためには、神の命令を「ひとみのように守る」(2節)ことが必要です。細心の注意を払い、慎重に守るのです。そしてこの命令を私たちの「指に結び、心の板に書きしるす」(3節)ことが必要です。常に心のなかで神様からの命令を反復し、記憶し、刻みつけるのです。そしてこの神様からの知恵と、自分の家族のように親しくするのです。
誘惑は、ときに信仰的な口実を用いて、あなたに迫ってきます。この狡猾な悪魔の誘惑に、私たちは主のみことばによって勝利しましょう。あなたは今、闘いへの備えはできていますか。信仰の武具を身につけていますか。
ここでは知恵が擬人化され、知恵自身が語ります。
新約時代に生きる私たちにとって、この知恵とはイエス・キリストご自身のことです。
主イエス・キリストは、私たちに知識と思慮を与えてくださいます。
そして、主イエス・キリストは、この世界が作られる前から、永遠の昔から存在され、父なる神と一つです。そして、天地創造のわざに参与し、この世界と人の子たちの創造をともに喜ばれたのです。
しかし、その三位一体の神のみわざは、終わったわけではありません。今も、神に創造された私たち人類を罪から救うために、働いておられるのです。
そしてこの知恵(イエス・キリスト)を見出す者は、いのちを見いだします(35節)。
ひとりでも多くの人がいのちの道を歩むことができるように、また、私たちが今日もいのちの道を選び、歩むことができるように、主の臨在のなかを歩みましょう。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14章6節)
ここでも擬人法を用いて知恵が語られます。
9章の前半では知恵は伝道者として描かれ、「わきまえのない者」「思慮に欠けた者」に対して呼びかけています。知恵にふさわしくない者を知恵は招くのです。イエスさまは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタイ11章28節)、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」(マタイ9章12節)と言われました。この私をも招いてくださる主に応答しましょう。
そして9章後半では愚かさが擬人法で描かれています。聖書はここで愚か者の特徴を3つあげます。
【1】 騒がしくみだらである: 永遠のこと、神のこと、人生の目的を考えず、流されるままに日々を過ごし、いつも欲求不満でいっぱいです。
【2】 盗んだ水は甘い: 人に見せられないような秘密の生活を作り上げてしまっています。
【3】 死の備えがない: 永遠の滅びがあることに気づいていないのです。
あなたの心の目は開いていますか。そして開き続けていますか。神の前で自分自身を吟味しましょう。