箴言には多くの知恵と教訓が記されていますが、その知恵は実際生活上の知恵でも知識でもありません。まさに神ご自身から与えられた知恵です。神との関係を前提として、どのようしたら聖い道、祝福された神とともに歩む人生を歩むことができるか、という知恵が記されています。
そしてこの神から与えられた箴言のテーマは、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」(1章7節)です。
「主を恐れる」とはどういうことでしょうか。主とは「すべてのものをあらしめる者」「すべてのものの根源」という意味です。その主をただ単に怖がるということではなく、主の恵みと愛への信頼をもち「畏怖の念」をもって、かしこみひれ伏し、従うことです。
真の知識は神様との正しい関係から始まります。
本当の知者とは、神様がこの世界の、宇宙の主であることを知り、そのなかですべてのものを正しく位置づけていく人のことなのです。
箴言に記されている神様からの教えに謙遜に耳を傾けるならば、「わきまえのない者」にも分別が与えられ、「若い者」にも知識と思慮が与えられます(4節)。そして、神様によって安全が約束されるのです(33節)。
「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう」(23節)
「知恵」は私たち人間の思索によって得られるものではありません。神ご自身が与えてくださるものです。ではどのように神様は今のこの時代、私たちに知恵を与えてくださるのでしょうか。それは聖書によってです。ですから私たちは聖書を開き、みことばを黙想し、暗記し、熱心に神様のみこころを求めるのです。
神様は私たちに「銀のように、これを捜し、隠された宝のようにこれを探り出す」という熱心な姿勢を求めておられます。そして探す者は必ず、見つけ出すのです。
「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」(エレミヤ29章13節)
両親は子どもに教え、知恵を授けます。それは子どもに祝福された人生を歩んでほしいからです。神様も私たちの天の父として、愛をもって私たちに神の知恵を守るように命じておられます。それは、神様のみことばに従うことの先に、祝福が用意されているからです。
その祝福とは「長寿」であり、「富と誉れ」(物質的祝福。16節)、「楽しい道」(精神的祝福。17節)、そして「いのちの木」(霊的祝福。18節)です。
クリスチャンにも、もちろん苦しみ、悲しみ、困難があります。しかし、そのような暗闇のなかを歩くときにも、心を尽くして主に拠り頼み(5節)、主を認めて(6節)歩む者には、神様から与えられる決して揺るがされない平安が心にあるのです。