詩篇には多くの嘆きの歌があります。私たちと同じように、暗闇、痛みのなかで主に叫ぶ信仰者の姿が、祈りが、多く記されています。しかし、この書簡は「ティヒリーム」(たたえの歌)と呼ばれました。それは嘆き、痛み、苦しみ、困難のなかにあっても、どのようななかにあっても、主に対する信頼がその根底に流れていたからです。
私たちは神をほめたたえます。しかしその理由は、恵まれたから、感謝なことがあったから・・・それだけではありません。神が神であられるからです。私たちがどのような状況にあっても、どのような状態であっても、神はいかなるときにも神であられ、ほめたたえられるべきお方だからです。
詩篇145篇は146篇から始まるハレルヤ詩篇の導入となっており、ここから150篇に至るまで神に対する願いは述べられません。いかに神がほめたたえられるべき偉大なお方であるかが述べられ、神への賛美で埋め尽くされています。
神にのみ信頼し、望みを置くとき、私たちの人生の喜怒哀楽、どのような経験も、神への賛美へかえられていくのです。苦しみのとき、悲しみで立ち上がれないとき、傷つきすべてが閉ざされたように思えるとき、あなたの神を見上げてください。あなたを愛し、あなたを贖い、あなたとともにおられる唯一まことの、天の父なる神様を見上げてください。あなたにとって、神様はどのようなお方ですか? 「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」(ネヘミヤ8章10節・新改訳の注**別訳)
最後の150篇は頌栄となっています。全世界のすべてのものが、神に創造されたすべてのものが、神をほめたたえるべきです。全世界が神への賛美であふれ、神をほめたたえる声で地が揺れ動くそのとき、神が私たちを、そして天地万物を創造されたその目的が達成されます。「また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』」(黙示録5章13節)
今日もこの主への賛美のうちを歩みましょう。ハレルヤ!と主を見上げて。