詩篇59篇はその背景にサムエル記第一19章11節の事件があると表題において言われています。これは、サウルが明朝ダビデを殺害するために夜のうちに使者を彼の家へ遣わし、見張らせることにしたのですが、その妻ミカルがダビデを窓から降ろし何とか難を逃れさせたという話です。そのスリルとサスペンスに満ちた危機的状況のなかで、詩人は困窮しながらも、自分の命をねらう敵からの助けを求めて祈ります(1〜5節)。いったい彼はどんな思いでこの夜を過ごしたのでしょうか。命を狙われなければならない理由など何もありませんでした。意味もわからず暗闇の中をただひたすら逃げ回らなければならない恐怖。これは想像を絶するものがあります。彼には敵に向かって自分の正当性を主張することもできたはずです。しかし、彼は聴く耳を持たない相手に対し正論をぶつけるのではなく、文字どおり勇気ある撤退という選択をしたのでした。
私たちも、ときに人に誤解されたり、意味もわからず理不尽なことを言われたりすることがあるかと思います。悲しみとやり場のない怒りに心が押し潰されてしまいそうになることもあるかも知れません。しかし、神様は私たちのすべてをご存知です。人が何と言おうが、どう思われようが、神様だけは真実をご存知であり、すべてを最善に導いてくださるお方です。この詩人はそのことを弁えていました。だからこそ公平に裁かれる主に、主ご自身がこれらの問題の解決をしてくださるようにと祈り求めたのです。もしこのとき詩人自ら相手に正論を振りかざし、その怒りの矛先を向けようものなら事態はもっと悪い方へ行っていたかも知れません。しかし、その怒りと悲しみ、嘆きや相手への裁きなどすべてを主に一任することによって、彼は絶望の夜のなかにありながら先取の信仰をもって希望の朝を迎え、力強く主を賛美することができたのでした。
以前、草原にびっしりと付いた朝露に朝陽が差し込みきらきらと輝いている、本当に美しい光景を目にしたことがあります。その雫の一つ一つがまるでダイヤモンドのような輝きを見せていたのです。私たちが苦しみや悲しみのときに流す涙も、そのときはただ苦しくて、ただ悲しくて、辛く思われるものですが、そのとき流した涙の一滴をも主は決して無駄にはなさらないということを、光り輝く朝露を通して私たちに教えてくださっているように感じました。
どんなに真っ暗な夜にも必ず明るく眩しい朝が来るように、神様はその愛の光を私たちに照らすことによって、あのとき流した苦しみのどん底の涙を喜びと希望の輝きに変え、暗く傷ついた心を感謝と感動の賛美で満たすことのできるお方なのです。あなたもぜひ、この詩人のように、今抱えている悩みや悲しみ、その思いのすべてを神様に聞いていただきましょう。主は必ずやあなたに希望の朝を、喜びの叫びを備えていてくださると信じます。