苦難に遭うと私たちは一刻も早くそこから逃げ出したいと思うものです。現にあのイエス様でさえも迫り来る十字架の苦しみを前に「できますならば・・・」(マタイ26章39節)と父なる神に助けを祈り求めたほどです。
詩篇55篇の詩人は敵の迫害による苦しみから、すぐにでも遠くに逃れたいという切実な思いを神に訴えています。詩人にとっての「敵」とは一体どんな人物だったのでしょうか? それは意外なことに、これまで仲良く語り合い共に礼拝を守って来た信仰の友であり、どんなことでも話し合える深い絆で結ばれていたはずの親友であったというのです。長年信頼を寄せていた人に裏切られることほど辛く、苦しいことはないのではないでしょうか。
私たちは日々の歩みのなかで様々な問題(試練)に直面しますが、本当の問題とは、目の前にある問題そのものなのではなく、その問題とどう向き合うのか、その受けとめ方なのではないかと思うことがあります。苦境からの解放とは、場所を変えたり逃げ出すことによって得られるものではありません。この詩人も一時はその問題から逃げ出すことによって自由が得られると考えたようですが、最終的には神ご自身を究極的な逃れ場とし、神に委ねたのでした。その結果、詩人が直面していた問題(迫害)がすぐに解決したということはなかったかも知れません。しかし、神様はその苦難の真只中で私たちの抱える問題に介入してくださるお方です。この詩人は後に自らの体験を踏まえ55篇22節で次のように力強く勧めています。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」
「重荷」とは元来「くじ」に由来し、その人に「与えられたもの」「課せられたもの」という意味があるそうです。すなわち、私たちには各々神様から割り当てられた人生の重荷があるというのです。神様は私たちが耐えられないような試練は与えない(第一コリント10章13節)と言われますが、ときとしてその直面する問題があまりにも大きすぎ、自分一人ではとても抱え切れず、投げ出したくなってしまうことがあります。この詩人もそうでした。しかしそのようなときには、否そんなときだからこそ私たちはこの詩人がしたように、まずその問題を主に背負っていただく、主にお任せしていくということが必要なのではないでしょうか。主はそんな私たちに寄り添い、共にその重荷を背負って支えてくださるお方なのですから。