日本の多くの教会では「神の愛」ばかりが強調され、「神の裁き」や「神の義」についてはあまり語られていない、もしくは避けられる傾向にあるという話を耳にしたことがあります。神は愛の方であると同時に義なる方であるということを私たちは忘れてはいけません。なぜなら神の義なしに神の愛の偉大さは分からないからです。
詩篇50篇16〜23節には偽善者に対する厳しい叱責が記されています。偽善の罪、これは私たちクリスチャンが一番陥りやすい罪なのではないでしょうか。これは大変恥ずかしい話ですが、私はクリスチャンになっても自分の罪というものがわかりませんでした。イエス様は「私たちの」罪のために十字架にかかって死んでくださったということは知識としてはわかっていたのですが、「私の」罪のためなのだということが実感として分からなかったのです。しかし、東京基督教大学(TCU)での学びや奉仕など様々なことで揉まれていくなかで、あるとき自分の罪というものがはっきりと示されたのです。今までこれは罪ではないと信じ込んでいたものが、一転して実は大きな罪だったのだということがわかったとき、自分はなんて汚い罪人なのだと思いました。自分は救われるはずなんかない。自分はクリスチャンなんかじゃない。そう思いました。そしてそのときになって初めて、イエス・キリストの十字架の重み、あのキリストの打ち傷や両手両足の釘の痕は、まさに私自身のためであったのだということが信仰生活5年目にしてようやくわかったのです。
詩篇50篇21〜22節には特に恐ろしい言葉が並んでいます。かつての私はこのような裁きの言葉は私ではない他の誰かに向けられている言葉だと思っていました。しかし、今ははっきりとこれは私自身に向けられている御言葉であると受けとめています。私たちは洗礼を受けてクリスチャンになればそれで終わりなのではありません。バプテスマとはゴールなのではなく、あくまでスタートなのです。私たちは日々主の前に謙り、悔い改め、いつでもこの救いの原点に立ち返っていくことが必要なのです(51篇)。
数年前にアカデミー賞監督メル・ギブソンの「パッション」という映画が公開され大きな話題となりました。キリストが十字架にかけられるまでの最期の12時間を描いたこの映画は、そのあまりのリアルさに心臓発作で亡くなる方が出たほどでした。私がこの映画を通して教えられたこと、それは「一人の人が救われることの重み」でした。私という一人の人間が救いにあずかるために、こんなにも惨たらしい犠牲が払われなければならなかったのかということを知ったとき、キリストの十字架が迫って来たのでした。罪のない神のひとり子イエス・キリストに鞭を打ち、その両手に釘を打ち込んだのは紛れもなく私自身であり、これを読んでおられるあなたご自身です。しかし、その犠牲のゆえに、私たちは本来決して赦されるはずのないその罪が赦され、神の子として生きる特権が与えられたのです。この恵みを私たちはしっかりと噛みしめ、感謝と感動をもって日々歩んでまいりましょう。