第32水曜 詩篇42篇〜46篇



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 有名な賛美歌に「鹿のように」という曲があります。とてもゆったりとした美しいメロディーから、雄大で美しい渓谷を流れる小川の辺で小鹿が楽しそうに水を飲んでいる、そんなイメージを私は長年抱いて来ました。しかし、この曲の基となった42篇1節の御言葉は決してそのような流暢な状況ではなかったのだということを、恥ずかしながら比較的最近になって知りました。

 新改訳聖書では「鹿が・・・」と「鹿」が主語として翻訳されていますが、原文では「牡鹿のように」という副詞が用いられています。英語の聖書でも"As the deer"(鹿のように)と訳されているとおりです。しかし、ここで注目したいのは原文の「鹿」という名詞が男性形であるのにも関わらず、「慕いあえぐ」という動詞には女性形が用いられているということです。このことから本来主語として登場するはずの鹿は「雌」であることが分かります。すなわち、「牝鹿」が「牡鹿のように」谷川の流れを慕いあえいでいるというのです。
 さらに注目すべきは、「谷川の流れ」と訳されている「川」が実際には「涸れ川」であったということです(新共同訳聖書ではここを「涸れた谷」と訳しています)。パレスチナ地方には雨季と乾期があり、乾期にはまったくと言ってよいほど雨が降らないそうです。そのため多くの川は干上がってしまうのです。聖書では「川のように裏切る」(ヨブ6章15節)という表現もあるほどに、「川」は裏切り者の象徴として用いられています。喉のカラカラな状態で荒野を放浪していた旅人が、川だと思って近づいてみたらそこには水がなく、まるで裏切られたような気持ちになったことから、このような表現が生まれたそうです。
 この牝鹿も、本来ならば女性らしくおしとやかに水を飲むところを、あまりの喉の渇きに耐えきれず、枯渇しきったもはや川とは呼べない谷川のほんの水溜りのような水を、肉食動物に襲われる危険を冒しながら、まさに牡鹿のように荒々しく、お腹をゼーゼー言わせながら激しく貪り飲んでいたのでしょう。
 この詩篇の背景は不明ですが、恐らくダビデがサウル王に追われ放浪の身であったときに、エルサレムでの礼拝を慕い求めたことが背景にあったのではないかと言われています。本来臆病な牝鹿が猛獣に襲われる危険を冒してまでも谷川の水を慕い求めるように、エルサレムでの礼拝に参加できない状況を嘆きつつ、自らの命の危険を冒してまでも神に礼拝をささげたいという、詩人の魂の叫びがこの詩篇には込められているのです。

 現代日本に生きる私たちにとって、実際に身の危険を冒してまで礼拝をささげるという状況はないかも知れません。しかし、それゆえに私たちは切実にかつ真剣に主を慕いあえぐということを疎かにしてしまってはいないでしょうか? 私たちはどれほど御言葉に対して飢え渇きを覚えているでしょうか? 鹿にとって谷川の流れが唯一の水源であるように、私たちには霊的な糧の源である御言葉が必要なのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条