心配や不安で心が押し潰されそうになった経験のある方は少なくないでしょう。多くのクリスチャンは、神が全知全能の存在で、このお方にできないことは何もないということを知っています。しかし、この事実をどれほどの人が本気で信じているでしょうか。私たちは何か問題に直面したときには特に強く神に祈るものですが、その問題があまりにも大きすぎると、祈りながらも半ば諦めの気持ちが出てきてしまう弱い存在なのではないかと思うのです。少なくとも私はそんな弱い人間です。
私は大学卒業後、しばらく祖父母と一緒に暮らしていたことがありました。同居を始めて3ヶ月が経とうかというときに、突然裁判所から土地と建物の差し押さえ通知が届いたのです。それは以前祖父がある人の連帯保証人になっていたことによるものでした。私はこの事実に一瞬目の前が真っ暗になりました。これまで裁判所などとは縁のない生活をしてきた私にとって、この通知は恐怖以外の何ものでもなかったのです。
それからというもの、まずは弁護士を探すことから始まり、毎週休日には祖父母を伴って法律相談所へ通い、何度も審理が繰り返されました。結局感謝なことに、その半年後にはなんとか和解が成立し、多額の債務を負うことにはなったものの、家や土地までも失い路頭に迷うことはありませんでした。この間私は毎日必死に祈りながらも、常に心のなかでは様々な思い煩いが支配し、祈りが聞かれなかった場合のことしか考えることができませんでした。「あなたの御手に委ねます」と祈りながらも、全く委ねきれていない自分がいたのです。
31篇の著者は、迫り来る恐怖のなかで、1節〜4節にかけて何度も何度も「〜してください!」という、まるで神にすがりつくかのような祈りを繰り返しています。そのうえで最終的には「私のたましいを御手にゆだねます」(5節)と、全知全能なる神への完全な信頼をもって、自分自身を神に明け渡していたのです。しかも普通であれば希望など決して持ち得ない「最悪」と呼べる状況のなかで(10〜13節)です。
私がこの詩人の祈りの姿勢から一番教えられることは、14節の「しかし、主よ。私はあなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』」との信仰告白です。これはペテロの信仰告白(マタイ16章16節)と通じるものがあるのではないでしょうか。自分を取り巻く状況がどんなに最悪と呼べるようなものであったとしても、どんなに人の言葉や態度に傷つき心が押し潰されそうになっていたとしても、それでも「あなたは、わたしを誰だと言うのか?」ということが私たちには問われます。ぜひ、私たちはいつ如何なる時にも「あなたこそ私の神です」と心からの信頼をもって告白できる者にさせられたいと思います。主は私たちの心の叫びに決して鈍感な方ではないのですから(34篇17〜19節)。