今日は詩篇22篇に注目しましょう。
先日コリー・テン・ブームというオランダ人の夫人の生涯を描いた「隠れ家」という映画を見ました。コリー・テン・ブームはナチスの残虐におびえるユダヤ人をかくまい、隣人のために体をはって抵抗したオランダ人の夫人です。ゲシュタポによるユダヤ人狩りのなかで、「私の家の扉をたたく人は、誰でも助ける」とテン・ブーム家の時計店はユダヤ人の隠れ家になります。結局、テン・ブーム一家は全員逮捕され、かくまわれていたユダヤ人たちは助かりました。テン・ブーム家の人々は、殺されるユダヤ人に代わって、十字架を背負ったのです。
父キャスパー・テン・ブームは、捕まって間もなく死亡し、コリーと姉のベッチィ・テン・ブームは女性収容所に送られます。姉のベッチィは収容所で死に、コリーだけが生きて収容所を出ることになりますが、もはや死を待つだけの診療所に入れられる直前に、ベッチィはコリーに一つのことを頼みました。「どんな深い穴にも、神様はおられる。自由になったら、このことを伝えて」。事務処理上の間違いでコリーは奇跡的に釈放され、姉との約束どおり、死の日まで世界中の人々に、人間の作り出した地獄と、そこにも存在された神様を証言し続けました。
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」(1節)
「神様どうして?」そう言いたくなる試練、苦しみは、この詩人だけでなく、私たちにも起こります。理由のわからない苦しみ。解決の道が見つからない試練。「どうして?」そう嘆く他ない苦しみ。
映画「隠れ家」のなかで、私が一番感動したのは、女性収容所の過酷な生活が続くなかでの、ある晩の会話です。「神様がいるなら、どうして私たちを助けてくれないんだい?」こう言って神様を罵る女性に対して、テン・ブーム姉妹は答えます。「わからないことはたくさんあります。でも神様が私たちを愛していることは確かです。神は人となり、私たちと同じ苦しみを味わわれたのだから」
神は人となり、私たちの罪を背負って十字架にかかられたのだから。
詩篇22篇の詩人は、過去のイスラエルの民に対する神の救いを思い出して、信仰を強められました(3〜5節)。
私たちには、詩篇の詩人よりもすばらしい恵みが与えられています。私たちにはイエス様の十字架があるのです。私たちの救いのために十字架にかかってくださったイエス様。その御苦しみを思うとき、私たちはどんな試練のなかでも、神とともにいることができるのです。まだ目には見えなくても、ここにも神の確かな導き、良いご計画が存在することを信じることが許されているのです。
新約聖書に至り、福音書の記者たちは、この詩篇22篇がイエス様の十字架を預言する詩篇であったことに気がつきました。この詩篇の1・7〜8・18節が、イエス様の十字架の場面で引用されています。イエス様は、私たちの罪の身代わりに、神から見捨てらるという苦しみを苦しんでくださいました。