今日は詩篇19篇に聞きましょう。
この詩篇19篇は大きく2つに分けることができます。まず、前半の1〜6節で、自然の世界にあらわされた神の栄光を賛美します。そして後半7〜14節では、神様の律法のすばらしさが賛美されています。
この詩篇を注解して明治・大正のクリスチャンリーダー内村鑑三は、「人間には2つの聖書が与えられている」と言いました。1つは、書かれた神の言葉であるこの聖書。もう1つは、書かれざる神の言葉、言葉なく造り主の栄光をあらわす天地自然のことです。
宗教改革者のカルヴァンは、同じ真理をこのように言っています。「どの方向にあなたが目を向けようとも、世界のどんな小さな部分でも、神の栄光の少なくとも何ほどかの輝かしいひらめきをさえ見えないようなところはない」
すばらしいこの世界において、天の大空によって、神は世界の創造者としての御自分の存在をあらしています。
しかし、そのようにすばらしい太陽も、大空も、神の御意志を示すには十分ではありません。3節に「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない」とあるとおり、昼と夜のこの世界が人間に与える神知識には、欠けた部分があるのです。自然の与える神知識には欠陥があるのです。それは偽りの神知識ではありませんが、不十分な啓示です。自然に優って、神の御心を人間に教えるのは聖書の御言葉です。聖書の御言葉には、はっきりと神の御意志が示されています。自然世界に太陽が命を注ぐのに優って、書かれた神の言葉である聖書には人間の魂を生き返らせる力があります。
7節で「主のみおしえ」と訳されている言葉は、ヘブル語では、主のトーラー、つまり「主の律法は完全」となっています。ここで言う「律法」は、十戒などの狭い意味の律法ではありません。ユダヤ人は、広い意味でも律法(トーラー)という言葉を使います。広い意味の律法(トーラー)とは、旧約聖書の最初の5冊の書を指して言う言い方です。旧約聖書の最初の5冊、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を、ユダヤ人はモーセの5書。あるいはモーセの律法と呼びました。
聖書こそは、人の魂を生き返らせる神の言葉です。聖書は神の御心をはっきりと知ることのできる上からの啓示の書物です。7〜9節で、律法・主のトーラーは、「主のあかし・主の戒め・主の仰せ・主への恐れ・主のさばき」と言い換えられていますが、全て同義語であり、主の律法のことを指しています。律法は「完全で、確かで、正しくて、きよくて、まことであり、ことごとく正しい」のです。
そして、律法がこのように完全な神の言葉だからこそ、主の律法は「たましいを生き返らせ、わきまえのない者を賢くし、心を喜ばせ、目を明るくする」のです。このように主の律法、つまり聖書の言葉が、人間を深いところで生かすので、ダビデは聖書を純金よりも好ましく、蜂蜜よりも甘いと賛美します。御言葉、金よりも好ましく、蜜よりも甘い!