ヨブ記には、「苦しみを与える神様は正しいのか」という疑問とそれに対する答えが、語られています。
ついに神様はヨブにあらしの中から語りかけられました。「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ」(40章6〜7節)。
ところが、ヨブに対する神様の言葉をどんなにていねいに読んでも、神様は一言もヨブの苦難とその原因に触れていません。「さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの」(40章15節)。それから河馬こそ神様のお造りになったものの傑作中の傑作であると言わんばかりに、河馬の姿をほめそやします。私たちが見ると、河馬は口が大きい、本当に不恰好な動物にしか見えないのに・・・。
それから神様は、「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか」(41章1節)と言われます。「レビヤタン」とは「わに」のことです。そして河馬のとき以上に、こんなにすごい「わに」を造ったわたしはすごいだろうと自慢します。「わに」のあのうろこの整列の見事な様、あの「わに」の力強い有様、これは私が造ったのだぞと。
神様は、私たち人間の美的な判断からすれば、すばらしいとは思えないようなものすら、自慢することによって、神様が造り、支配している世界のなかで起こる出来事を、人間の理解で判断してはいけないということをヨブに示されたのです。
結局ヨブは、「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです」(40章4節)と悔い改め、自分の無知を思い知らされます。「知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました」(42章3節)。自分の無知を思い知らされ、神様への絶対的な信仰を取り戻したヨブは、再びもとの状態に戻され、平和にすごします。
ヨブ記は、どんなに大きな苦難のまっただなかに置かれても、心から神様を信じて、神様をあがめる、それが本当の信仰であると教えています。私たちの人生においても、私たちの目で見て、人間の頭で考えて、人間の心ではどうしても受けとめられない、どうしても納得いかない、そういうことがときにあります。
そんなとき、人生の苦難は神様が与えた罰であるという古い考え方を打ち破り、もっと深い神様のみこころと愛に身をゆだねて、苦難を克服する信仰の知恵を、ヨブ記は教えています。