懐かしい過去の栄光を述懐しながら語ってきた、それを全否定するように「しかし今は」(30章1節)と続くのです。
春の雨を待つように、自分のことを待ち望んでいた人々が、自分をあざ笑うのです。あざけり、笑い草にし、忌み嫌った上で、唾をかけるというのです(30章9〜10節)。
ヨブの姿のうちに、救い主イエスキリストが十字架にかけられる際の出来事がダブってくるように思えます。イエスも唾をかけられ、あざけられながら、十字架への道を進まれました。
人間がこういう態度を取るのは、神が彼との間にあった綱を解いたからだ(11節)。神が苦難の道を歩ませることを、良しとされたからだ。
ヨブの足はもつれて歩けません(12節)。滅びの道を歩むのですが、それすらも転びながら歩くのです。ここは、あまりの拷問のために、十字架を背負っては前へ一歩も歩くことができず、クレネ人シモンの力を借りてゴルゴタへ歩まれたイエスを想起させられます。
でも、ヨブは天国に近い山のてっぺんで神様の御姿を垣間見てからは、ひたすら神から離れ続けたと思っています。神が関与する場所ではないと思われた、この地上を、さらには地上の下、地面の下を、ひたすら沈み込みながら走り続けているのです。
ランナーならビリを走っていても、沿道から大声援が送られるでしょう。でも今のヨブはそんなものすらありません。それどころか、ヨブには、あざけりの歌と笑い、唾が沿道から吐きかけられるのです。とてつもなく孤独なランナーです。
誰が自分を見つめてくれるだろう、ヨブはボロボロ泣きながら走るのです。どんなときも、最後にして唯一の頼りとなるはずの神が、そば近くに感じられない、いやそれどころか、ヨブが知っていた神ではありません。しかし神はそうなってしまった、ヨブに敵対し、泥の中に投げ入れると言うのです(30章19節)。「立っていても」(20節)というのは「途方に暮れていても」というニュアンスです。神様に一生懸命助けを叫び求めながら走っているのに、神様はうんともすんとも仰ってくださらない。
神は変わられた、別人になってしまわれた。それも残酷な方に変わってしまわれた、ヨブにはそうとしか思えません(21節)。
「神が残酷な方だ」という表現は、聖書の中で他に見当たりません。それほどヨブは自分の叫びに対して、言い換えれば祈りに対して、沈黙し続ける神にショックを受けているのです。
いったい神はどうしてしまわれたのでしょうか。神は、ヨブの最も厳しいと思われる人生のレースの最中に、遠く離れてしまわれたのでしょうか。いつも神様と刻まれてきた二組の足跡は、ヨブの目にはたった一つだけになってしまったように見えます。目に涙をいっぱい溜めながら、「私が叫んでもお答えにならない。神様、あなたは残酷だ」とつぶやくのです。
ヨブは気づいていません。しかし神様はヨブと一緒におられたのです。この世の底辺に沈み込むヨブのような人々と一緒におられたのです。