ヨブは神に不満を述べます(27章2節)。しかし、これまで無神論に陥ったことはありません。「神存在」は疑ったことがない。「ただその神が私の権利を取り去り、私の魂を苦しめている」と不満を述べるのです。
不満とは、あることが認めてもらえないから生じるものです。ヨブにとってそれは「自分の正しさ」です。それは何が何でも譲れません(5〜6節)。「自分はこれほどの苦難を受けるような悪いことをしていない、因果応報論で私を責め立ててくる3人には断固譲れない。とにかく私は徹底的に潔白であり、あなたがたの主張を認めることは、私には絶対にできない」と言うのです。
新約聖書に慣れ親しんだ私たちからすると、このヨブには違和感を持つでしょう。新約のパウロは自分のことを「罪人のかしらだ」と言いました。「人間は皆罪人だと言われるけれど、そのすべての罪人のかしらは、この私だ。私こそ罪人の中の罪人だ」と言うのがパウロの自覚でした。
そういう自己認識からすると、今日のヨブは正反対です。自分の罪を認めず、自分の正しさを徹底的に主張するわけですから、私たちが親しんだ新約的な罪の捉え方、人間認識、自己認識とは、まったく相容れません。
ヨブは先に見出した真理が、次第に見えなくなってきました。見出した真理をずっと終わりまで持ち続けていれば、ヨブ記はまさに新約聖書になってしまうことでしょう。
でもヨブ記は旧約聖書です。最大の違いは実際にイエスが地上に来られる前の書物だということです。神が人として地上に来なければならないほど、人間の罪が甚大であり、神の恵みはそれを覆うほど、もっと甚大だということが、ハッキリとは見えていない。これが旧約聖書の限界であり、ヨブ自身の限界でもあります。限界の中で、どんどんヨブが垣間見た真理は霞んでしまうというのが、今、辿っている箇所です。
28章に進むと、ヨブの歩みは平地ではなく、もはや地の底に潜ります、ズンズン下って行って地面にめり込んで、ついに地の底にまで沈み込むのです。
そこには金、銀、サファイヤ、鉄、銅、縞めのう、サンゴ、水晶、真珠、ドパーズ等々様々な鉱物が登場します。そういう鉱物を掘り出すかのように、ヨブは土の下に潜っていきます。
いや、今のヨブにとってそんな宝石にも勝るほどのものは、現状を弁え受け入れる心です。ヨブは「知恵はどこから見つけ出されるのか。悟りのある所はどこか」と言っています(28章12節)。ヨブが求めているのは、深い知恵と悟りです。そしてそれは地面の上には転がっていません。地表を眺めてみても、そんなものが露出してはいません。13節に「それは生ける者の地では見つけられない」とあります。
坂道から、地面の中にまでめり込んでいったヨブは、さらにここを掘り進んで、本当の宝物を発掘したいと願っているのです。
ただし、やっぱりヨブは優れた信仰者です。実はその宝の在りかを知っているのです(23〜24節)。宝物は、むやみに地面を掘って発掘できるというもんじゃない、「神が鉱脈を知っておられる、神がその所を知っておられる」だから神に教えられなければならない、ヨブにはそれが分かっているのです。むやみに苦労する、難行苦行するだけじゃダメ。神に近づいて行って、その神に教えていただいてこそ、人生の宝を見出せるということを、ヨブはちゃんと知っているのです。
29章は過去の述懐から始まっています。本当にすべてが夢だったらいいのに、悪い夢なら早く覚めてくれればいいのに(29章2節)。古き良き時代を思い返し、かつての日を振り返って感無量の思いにふける部分です。
周りが暗いときもヨブの頭の上だけは明るく(3節)、声が天幕越しに聞こえるほど間近に神と接し、全能の神がヨブと一緒にいて、子どもたちが元気に過ごしていた。7人の息子、3人の娘、目に入れても痛くない、愛する我が子たちが一緒にいた幸せな家庭です(4〜5節)。
また名声もあり(7節)、彼が町の門に座れば、周りの空気は一変し、お喋りは止み、その語る言葉に注目が集まっていました。ヨブは豊かな人格者として多くの人の心を惹きつけ、つかさたちも首長たちも、一目置いていたのです(11節)。
口だけでなく、実践の人でもありました(12〜13節)。貧民、みなしご、病人、やもめ、皆当時の社会は手に負えない、諦められた人たちです。でもいつ自分がその立場になるかわかりませんから、そういう人を救出する人は、やはり誰もが称賛していました。
ヨブはまた品行方正、正義の実践者でもありました(14〜17節)。抑圧された人々を救い出すために、多くの労力を惜しみなくささげました。人権派で、弱者たちの顧問弁護士を、儲けなしで引き受けるような優れた徳の持ち主です。こういう、すばらしい人生を歩んできたのが、かつてのヨブでした。
だから彼ら周囲の人々は、いつもヨブを待ち望みました(23節)。「後の雨」(新改訳の欄外脚注には「春の雨」)。ヨブ記の舞台は1章1節に「ウツ」という町だとありますが、これはパレスチナとアラビアの国境近くで、春らしい春のない土地柄です。それでも春を告げる雨を人々は心待ちにしていました。それと同じくらいヨブが広場に登場するのも、そこで言葉を発するのも、人々は心待ちにしていたのです。