第30月曜 ヨブ記22章〜26章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 エリファズによるヨブへの3度目のお説教。「人は神の役に立つことなどできない」(22章2節)と、信仰者誰もが同意する真理から語り始めます。しかし、その真理を使って、神の天罰が下ったとする悪意に満ちた罵り(5〜9節)へと発展させる、酷いお説教です。ヨブが語る神の超越性をわざわざ曲解して(10〜14節)、破滅と裁きの宣言を導き出し、「ヨブよ、お前も心を入れ替えろ」と言ったお説教を続けます(21〜30節)。
 それに対してヨブは、23〜24章で反論します。その声は精神的ダメージによって沈みながら(23章2節)も、ときに上に浮かんで「神様にお会いしたら、思いの丈を述べたい」(3〜7節)と、顔を上げて願うのです。しかし、「実際にやってみるとダメだ」(8〜9節)と、消極的になったり、「いやいや、試練は金が精錬されるのに必要なことだ、神様に真正面を向いて従っていこう」(10〜12節)と、積極的になったり、その心の浮沈は定まりません。
 23章の最後は非常に暗いイメージで終わります(13〜17節)。このときのヨブにとって、神は押せども突けども少しも心を変えてくれない頑固者で、「心の欲するところを行なわれる」というのです。
 私たちの信仰生活も、洗礼によって一つの頂点を極めますが、その後、このようにアップダウンを繰り返すのではないでしょうか。その意味で覚えたいことです。

 24章でも、ヨブの3人の友人への不満と、神に裁きを願うことから書き出されます。まるで地境を勝手に動かすような、ヒドイ攻撃をしてきた彼らへ裁きを願い(2〜5節)、悪人たちの犠牲になって苦しみの道を辿る弱者たちがいるという世の姿(6〜11節)に、ヨブは我慢がなりません。
 その苛立ちは、呻き声をあげているのに、その祈りを聞いてくださらない神への訴えに至ります。
 「知らん顔をなさる神」に向かって、遂にヨブは「彼は暗黒の恐怖と親しい」(17節)と、闇の勢力と神とが癒着していると訴えるのです。
 弱者が傷めつけられ、悪人たちが繁栄している、この世の理不尽の根源に、「沈黙する神」があり、その不満によって、ヨブの心は沈みこみます。
 しかし、いつかこんな理不尽は終わる(25節)という希望も、ヨブは捨てません。

 25章はビルダデによる3度目のお説教。感情的ではなく、教え諭すような口調で、持論をぶつけます。人間の正しさなど、神様の前にはないにも等しい(4節)と、ビルダデは正論を説きながら、徐々にヨブを追い詰めます。一言も返すことのできない言葉ですが、言外には、「ヨブよ、お前が神の正義についてゴチャゴチャ言う権利などない、アダムの末として、罪の中に生れたお前が、どうして清くあり得ようか。どうして神の正義を問う言葉を、口にし得ようか。(まったく図々しい)」という辛辣な皮肉も込められています。
 ヨブは、現実に襲いかかっている、ズキズキと疼くこの身体に対して、机上の神学によって説明される神など不要、生ける真の神がリアルに我が身に迫って欲しい、暖かい温もりのある御手を私に置いて、癒しと助けを与えて欲しい、せめてこの痛みの意味がなんであるのか、そば近くにきて、耳元で、教えていただきたい。そんな生々しい神を渇望していたわけです。
 そんなときに、こんな「お説教」をされても、まったくハートに響かない。虚しい戯言に聞こえてしまうわけです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条