甚大な災難にあったヨブへ、友人たちのお説教が繰り返されます。最初は激励の要素も多くありましたが、それが聞き入れられないと、彼らの言葉は次第にきつくなります。友人たちの主張は「神は善であるから、罪を犯した人は刈り取りをしなければならない。また、刈り取りを強いられている人はどこかで罪を犯したに違いない」との因果応報論。しかしヨブは納得しません。ヨブにとって神は、義人を苦しめ、悪人を幸せにしたとしても、それでも正しい神なのです。災いと幸せを越えて、ひたすら神を礼拝し、神に依り頼むことが真の礼拝だというのが、ヨブ記のテーマでもあります。
友人たちから徹底的な批判を受け、これは「イジメだ」(19章3節)とヨブは反発します。でも、ヨブの本当の相手は友人たちではなく、このちっぽけな子分の背後にいる大親分、すなわち神様にこそ、反論したいのです。
神が私をとうせんぼしてしまわれた(8節)から前進できない! かつて眩しいほどの栄光に輝いていたのに、すべて神様によって取り去られてしまいました(9節)。希望が奪われ(10節)、仲間を奪われ(13節)、身内を奪われ(14節)、世話をした奴隷たちからさえ無視をされ(16節)、妻は「息が臭い」と言って近寄らない(17節)、徹底的な孤独に置かれました。
まさに絶望の極みに置かれたヨブの口から、思いがけない言葉が出ます。
「私を贖う(買い取って自由を与えてくださる)方」は生きておられる。しかも、その方はヨブが座る「ちり」――正直者がバカを見て、悪者が幸いになる、実に汚れ切った世界―― の上に立たれる(25節)。
「我がこの皮、この身の、朽ち果てん後、我肉を離れて神を見ん」(26節・文語訳)。痩せ細って骨と皮になって、生死の境を歩んでいるヨブは、やがて皮が剥ぎ取られるだろう、肉体が朽ち果てる日が来るだろう、まもなく肉体を離れる時がくるだろう。けれども私が死んだとしても、私はそれで終わりではない。後の日に、贖い主は必ずこの地に立ってくださる。この塵芥の世界に来てくださる。
そして、善人が苦しみ、悪人が増長するこの世界のすべてに決着をつけてくださる。そうであるならば、私が生きた記念として鉄の筆を使って岩に書き残した言葉(24節)だって、きっと読んでくださるに違いない。確かに私という一人の人間が存在したことを覚えてくださり、心に留めてくださるだろう。永遠・無限・完全なる神に、覚えられる。万物を支配なさる神が、この私のことを心に留めてくださる。
そのような贖い主を「私は見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。他の目ではない、私が見る」と言うのです。
旧約聖書においては異例なほどハッキリと復活信仰が告白されています。
そしてこの成就は新約聖書のイエス・キリストにおいてクッキリとなるのです。