第27金曜 エズラ記9章〜10章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【9章】

 旅の後始末や必要な事務的な働きが一段落したとき、エズラにイスラエルの「不信の罪」(2節)の報告がもたらされた。それは、イスラエルの民が周辺の「忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく」(1節)結婚しているというのである。当時、異邦人であっても、イスラエルの民に加わることができなかったわけではない(6章21節参照)。ここで問題になっているのは「血のつながり」よりも「信仰の純粋さ」であった。偶像礼拝と不道徳が民に広がることに問題があった。
 エズラと彼のもとに集まった人々は「夕方のささげ物の時刻」(4節)まで沈黙のうちに時を過した。神は、エズラに絶望のなかから「気を取り戻して」(5節)祈る力を与えられた。
 祈りこそ信仰者に与えられた特権である。私たちが絶望し沈黙しているとき、すでに神は祈りの霊を注いでおられる(ローマ8章26節参照)ことを覚えたい。

【10章】

 イスラエルの信仰再建のために、他民族の「妻たちと、その子どもたちをみな、追い出す」(3節)ことが提案された。そして、その決断を、明日ではなく「今」しよう、と言うのである。この提案は、非人間的で非情な感じを与える。しかし、イスラエルの実情は、このような処置をとらなければ神の民として存続し得ないところまで来ていた。
 本書の最後は、悔い改めの実を結んだ人たちのリストである。神殿の再建のためにエルサレムにのぼってきた人たちのリストも尊いが、人情、愛情の絆を断ち切って、悔い改めの実を結ぼうとした人たちのリストも尊い。
 エズラが始めた働きは、このようにして、最初から大きな試練に直面した。しかし、主の前に心を注ぎ出し、助けを求めるならば、絶望することはない。どのようなときにも、「なお、望みはある」(2節)ということを、私たちも忘れないようにしたい。


【信仰告白】

[2] 使徒信条