学者エズラは、王の許可を受け、帰還を希望する者たちと共に「エルサレムに上って来た」(7節)。それは「イスラエルでおきてと定めを教える」(10節)ためであった。御言葉によらなければ、神の民は養われないし、成長もしない。見える神殿は建てられたが、「生ける石」である信仰者一人一人によって、「霊の家」(第一ペテロ2章5節)を築くのはこれからであった。
エズラは、「主の律法を調べ、これを実行」(10節)する人であった。御言葉の学びは、実践に結び付いたものでなければならない。エズラが王から信頼され、民を導くことができたのは、彼の言行一致の精神、御言葉への忠実さがあったからである。このように生きる者に神の恵みの御手が確かにあったのである(28節)。
今日、私たちは、御言葉の学びの姿勢を振りかえってみたい。
エルサレム行きの準備が整ったところで、エズラは「断食を布告した」(21節)。その目的は、「神の前でへりくだり・・・道中の無事を神に願い求める」ことであった。莫大な「銀、金」(25〜27節)を携えての旅は、かなりの危険がつきまとった。エズラとその一行が最も安全確実にエルサレムに到達する方法は、ペルシヤ王により頼んで「部隊と騎兵たち」(22節)に同行してもらうことである。しかしエズラは、それを恥と考えた。ただ神の御守りのみにより頼むべきであると考えたのである。エズラは、このことが自分の思いか、それとも神の御心かを、断食と祈りによって神に問うた。その結果、エズラは「神は私たちの願いを聞き入れてくださった」(23節)という確信を得た。その確信を持って、エズラと民は、困難な旅を始めた。
私たちの信仰の旅路も、そのように祈りによって与えられた確信を持って歩む旅でありたい。