第27火曜 エズラ記1章〜3章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【1章】

 「主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので・・・」(1節)。紀元前538年、歴史の主である神の御手は今、王の心を動かされた。イスラエルの民は、神殿の再建のために捕囚からの帰還を許されたのである。「神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった」(5節)。
 家族をあげてエルサレムに帰るには、勇気と信仰が必要である。それほどの決意のない人々 ―─「残る者」(4節)―― にも役割があった。それは、ささげものによって、帰還する人々を「援助」(4節)するという責任である。それも「進んでささげる」(6節)という自発的なささげものによってであった。そのささげものが帰還する人々を「力づけた」(6節)。
 神の働きには、自らの生涯をかけて献身する者と、その人を物心両面にわたって支える者とが必要である。宣教団体を覚え祈ろう。

【2章】

 なぜ、聖書はこのような人名リストを長々と記すのであろうか。それは、神が一人一人の人間に関心を持たれるということを表している。
 エルサレムに帰還した人々は、「神の宮のために自分から進んでささげ物をした」(68節)。捕囚から帰還した民が経済的に豊かであるはずがない。これからどうなるかわからない、将来の蓄えも必要である。そのなかで、神殿再建のために、自分たちの「できることとして」(69節)ささげたのである。
 彼らは、まだ、神殿が再建されていないのに「祭司の長服百着をささげた」(69節)。このことは、彼らがいかに神殿における礼拝を熱心に求めていたかを示している。神殿再建は、単に「箱もの」を建てることではなく、礼拝再建であった。真実な礼拝を求める思いから、真心からのささげものが生まれる。
 私たちの礼拝への思いはどうだろうか。

【3章】

 「民はいっせいにエルサレムに集まって来た」(1節)。口語訳「民はひとりのようにエルサレムに集まった」。彼らがひとりの人のようになって、最初にとりかかったことは祭壇を築くことであった。その祭壇で献身を表す「全焼のいけにえ」を「朝ごと夕ごと・・・ささげた」(3節)。「霊的一致」と「全き献身」、それなしに、いかなる神の業も進むことはない。心に刻みつけたいことである。
 神殿の基礎工事が忠実な働き人によって成し遂げられた。それを見て、老人たちは、絢爛豪華であったソロモンの神殿と比べて、あまりのみすぼらしさに「大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた」(12節)。神の導きを信じる者は、他と比べることなどしない。ただ、目前の神の御業を見て「喜びにあふれる」。
 私たちも、過去や他人と比べることはやめよう。


【信仰告白】

[2] 使徒信条