ヨシヤ王は、改革の集大成として、エルサレムで祭司やレビ人を力づけて「主に過越のいけにえをささげた」(1節)。「過越」は、単なる年中行事ではなく、神への献身を堅固なものにする重要な儀式であった。今日、私たちが教会で守っている聖餐は、それほどの意識で守っているだろうか。
この章の終りの部分は、ヨシヤ王がしなくてもよい余計なことをしたために自滅するという記事である。ヨシヤほどの人でも、自分の考えを優先させてしまい、「神の御口から出た〔エジプト王〕ネコのことばを聞かなかった」(22節)。神の言葉に従うことができなかたのである。もしここでヨシヤが静まって神に祈っていたらと考えると残念である。
自己中心と不従順、この2つこそ、御言葉に生きようとする者に立ち向かってくるサタンの武器である。私たちは行動の前に神の御心を確認することを忘れないようにしたい。
ヨシヤ王以後の歴史は、急坂を転げ落ちるかのように、もはやとどめようのない状態になっていった。しかし「神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた」(15節)。その預言者のなかでも際立つのは、エレミヤである(12節)。ほかにも、この時代に、ダニエル、エゼキエルが遣わされている。いかにこの時代に、神は情熱を傾けて、滅びゆく神の民に語りかけられていたかがわかる。時代が悪いときほど、神は、心を痛めておられたのである。しかし、神の民は悔い改めることはなかった。そのため、徹底的な滅びが彼らを襲った(17〜20節)。しかし、それでも神は見捨てることなく、ペルシヤの王クロスを用いて、回復の希望を与えてくださったのである。
滅びゆく魂への神の情熱は、今も変わっていない。今日、神がその魂のもとに遣わそうとされているのは私かもしれない。