マナセ王は、著しい偶像礼拝のゆえに、ユダ王国最悪の王とされている。「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈った・・・」(12〜13節)。彼は悔い改めて「主の宮から外国の神々と偶像、および・・・祭壇を取り除いて、町の外に投げ捨てた。そして、主の祭壇を築いた」(15〜16節)。しかし、残りの生涯で失われたものを元に戻すには、あまりにも罪の爪痕が大きかった。ましてその子アモンが悔い改め以前の父マナセの行いに戻るに及んでは、ほとんどマナセの回復はユダの王国に効果を現さなかった。
最悪の王マナセですら悔い改めたことは、私たちに大きな希望を与える。しかし、悔い改めがもう少し早かったら、彼の家庭もユダ王国の未来も明るくなったことであろう。私たちは、罪を示されたら、悔い改めを遅らせるようなことがあってはならない。
ヨシヤ王は、16歳の若さで「ダビデの神に求め始め」(3節)、20歳で偶像を取り除いて「ユダとエルサレムをきよめ」(3節)、26歳の時に神殿の修復にとりかかった。そのとき神殿の中で「祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された主の律法の書を発見した」(14節)。王は、ユダのすべての住民に「発見された契約の書のことばをみな・・・読み聞かせた」(30節)。そして、王自ら「この書物にしるされている契約のことばを行うことを誓った」(31節)。そのうえで、「イスラエルにいるすべての者を、その神、主に仕えさせた」(33節)。王は、このように改革を断行した。
私たちの「神の宮」には綻びはないだろうか。点検を行い、繕い、修復をしよう。そうすれば、きっと長く忘れられていた御言葉を発見することになるだろう。私たちもその御言葉によって、私たちの信仰を改革しよう。