10章はイスラエル王国の歴史の転換。下り坂の始まり。ソロモンに代わって王となったレハブアムが民意を束ね得ず、ヤロブアムの介在によって王国は分裂する。ダビデが用意し、ソロモンが完成した神殿はなんだったのか。
10章で最も重要な言葉は「神がそうしむけられたからである」(15節)という言葉。聖書は神が歴史を支配しておられると告げる。それは歴史のなかで行動する人間の責任を問わないものではない。レハブアムは長老たちに相談しているのだから民に「親切なことばをかける」べきだっただろうし、ヤロブアムのような隠れた敵意を実行に移す人物に注意すべきだっただろう。
私たちは歴史の人物を通して学びうる。しかし、それらを超えて聖書が示そうとしているのは、まことの神礼拝がどこにあるのか、ここには存続しえなかった、しかし、やがて実現するということではないか。神はそのことを長い歴史を通して語ろうとしておられる。そしてその歴史は神が支配しておられるということである。
11章、レハブアム王は反乱を鎮圧せんと兵士を募る。しかし神の人シェマヤが「兄弟たちと戦ってはならない」と神の言葉を告げて、レハブアムはこれに従う。与えられる人生のなかで人がなし得ることは、神が定めておられることを悟ること、そのなかで正しい行為を選び取ること。戦を禁じられたレハブアムは防備の町々を建て、それらを強固なものにした。
心を神にささげ、神を尋ねる者たちが、彼のもとに集まったことは幸いであった。父たちの道に歩んだ結果であった(16・17節)。
12章、しかしレハブアムは自分が強くなると神の律法を捨て、神への不信の罪はエジプトからの攻撃をもたらす。王たちは神の人シェマヤの警告を聞いて神の前にへりくだるが、エジプトの脅威は去らず、警告は残る。人として真の自由を得る道は、神のしもべとなること、神のことばに従うことであると聖書は告げている。また怒りを思い直される神、完全ではない私たちも(人も)神の前に幾らかの良いことをなしうる、ということも忘れてはならない事実である(12節)。