第25水曜 歴代誌第二5章〜6章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 主の宮はついに完成し、イスラエルの全会衆がそこに集い、いけにえをささげる。その数はおびただしく、「数えることも調べることもできなかった」(5章6節)。他方、宮の中心をなす契約の箱の中には「2枚の板のほかには何も入っていなかった」(5章10節)。この対比が印象的である。

 イスラエルの民は神殿の完成を喜び、持てるものをささげた。しかし、それらのものが神の偉大さを代弁することはない。材料を選び、技術をこらした建築物もそうである。2枚の板の他なにもない契約の箱、それは、神ご自身をここにお入れすることなどできないという認識を示す。しかし目に見えない神がイスラエルと契約を交わし我らの神となってくださったことこそ驚くべきこと。その神が共におられることこそ感謝すべき。十の言葉に象徴される戒めを賜ったことこそ、憶えらるべきことだった。

 選ばれたレビ人の歌うたいたちは「まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ」る(5章13節)。彼らの巧みさは、一致への技術でもあった。
 私たちは芸術において、スポーツにおいて、複数のメンバーが驚くほどに一致した動きをするのを見る機会がある。一致ということが並々ならぬ技術を要することを教えられ、またそこには一つの美や力といった価値が生じるのを見る。
 キリストのからだなる教会は、一致のためにどれだけ心と力を割いているだろうか。神の民が一つとなって(かつへりくだって)神の御前に進み出る時、神はご自身の栄光を表されるのである。また礼拝という行為は一致を求めるとも教えられる。他の場面でない、神に対する時、人は一つであるべきなのだ。礼拝においてひとりの神の御声を聴き、そしてそれぞれの活動の場、生活の場においては、それぞれの務めに励むということだろう。

 主の栄光が宮に満ちた時、ソロモンは主をほめたたえつつ語り祈る。とりわけ重要なのは6章18節以降の神殿の機能を語る言葉だろう。
 神は地上に住まれない、天も神を入れることはできない、ましてこの宮は、と語るソロモンは、神殿が完成すればそこに神はおられるとは思っていなかった。しかしこの所で御目を開いてしもべのささげる祈りを聞いてくださいというのが彼の正直な祈りだった。神の超越者たることをわきまえて、有限な人間である自分をわきまえて祈る祈りの正しさを教えられる。
 そしてこれから起こる様々な試練に際して祈る祈りを聞いてくださいと願う。神殿が祈りのために用いられ、神の民の向き合う現実のなかで機能すべき場所であったことを教えられる。神礼拝を中心とする信仰は、現実を生き抜く力として働くことを期待された。


【信仰告白】

[2] 使徒信条