28章と29章はダビデの生涯の結び。それは、民への呼びかけ、ソロモンへの励まし、神への祈りからなる。
民への呼びかけは、いきさつの回顧から始められた。ダビデがただ主の契約の箱のために建築を用意したこと。しかし血を流した戦士である彼は退けられたこと。ゆえに事業はソロモンに委ねられたこと。
自分の手による達成を神から拒まれてなお準備の手を緩めず、事業を息子に委ねる。それは自分の血を引く者が完成することによって満足するというエゴではなく、ただ神礼拝が神の民の生活の中心に置かれることへの切なる願いだった。神を第一とするこの願いに民は喜んで応じ、おびただしいささげものを携えてくることになる。
ダビデが民と一つ心に成り得たのは、彼の心が神と一つになっていたからではないか。それがダビデ王の魅力と思う。ゆえにダビデは息子ソロモンに「あなたの父の神を知りなさい」と語りかける。神を求めて王としての務めを果たし得たダビデにして語りうる帝王学であろう。世界の多くの指導者が、仕えられる者となっているのに対して、ダビデはソロモンに「神に仕えなさい」と命じる。神に仕え、そして、人に仕えよ、と言葉を補ってもいいのではないか。仕え人となること。
そして「神を求めるなら、神はご自身を現される。あなたが神から離れるなら、神はあなたを退けられる」と語る。人々の上に立つ力を持った王だからこそ、基準を自分に置かないということが、いっそう必要とされたのだ。まして私たちは。
29章25節ではソロモンの治世が一旦総括され、26節のダビデの生涯の結びに続く。ソロモンに事業を引き継いだところまでがダビデの功績なのだ。
29章10節、主をほめたたえつつ祈りかけるダビデの姿は、彼の神殿建設事業が、神礼拝を心から慕う動機から生まれたものであることの証拠。費やされた神賛美の言葉。これにリアリティを与えるのは14節以降、神の偉大さを認めつつ、自分の乏しさを見つめる眼差しにある。
15節の言葉は含蓄深い。神殿建設を準備させていただいたというのに、ダビデは「わたしたちは異国人であり」と語る。神に選ばれたということを本当にわきまえた人は、値しないのに選ばれた、本来ならば神と無関係であった者が、と悟って感謝できるのだろう。
建設を前に生涯を閉じる運命を愚痴ってもおかしくない場面。しかしダビデは、用意されたものはすべてあなたの御手から出たものだと認め、告白する。神の前での謙遜を知る彼の生涯の評価は28節、長寿に恵まれ、齢も富も誉れも満ち満ちて死んだ、という他の誰にも与えられなかった言葉が記された。