18章は、主がダビデの行く先々に勝利を与えられたことが記されています。
1節にある「その後」とは何を指しているのでしょう? これは、これまでの歩み、すなわち、ダビデが王となった後、ダビデの町を首都とし、神の箱を取り入れ、主を礼拝した一連の出来事を指しているといってよいでしょう。ダビデは、それらをなした後、「その後」外との課題、ペリシテやモアブに打って出たのであります。
国王となったダビデにとって、なすべきことは山積みだったでしょう。そのなかから何を優先し、行なっていくか。それはきわめて重要な部類に入ります。そのようななか、ダビデは先に戦い、ではなく、まず神の箱を取り入れ、主を拝するということを第一としたのでした。主もまたそのようなダビデを祝し、行く先々で勝利を与えられたのです。
今日という一日のなか、あるいは一週間という歩みのなか、何を第一として歩むか、もう一度吟味させられたいと思います。
19章は、アモン人との戦いが記されています。
ダビデはアモン人の王ナハシュの死に対し、真実を尽くそうと弔問の使者を送ったのですが、アモン人の王ハヌンは、「ダビデなど信じられない。きっと偵察に来たのだ」と、ダビデの使者を辱めたうえで送り返します。いつの時代も、浅はかな考えに基づく愚行は悲劇しか生みません。さらに愚劣なのは「ダビデの憎しみを買った」のを知って、アモン人のほうから戦争をしかけたことであります。アクセルを踏むことしか知らない指導者とは、まさに国の害悪でしかありません。
一方、この戦いに対し、将軍ヨアブは「全力を尽くそう」と語り、10節をみると、現状に応じて主からいただいた才能をしっかり働かせています。そのうえで、「主は御心にかなうことをされる」と告白するのです。主に信頼するとは、何もしないことではなく、与えられた賜物をフルに活かしつつ、ことに取り組むということでありましょう。
20章は、イスラエルが周辺諸国相手にことごとく勝利を収め、国が安定したことが記されています。
ヨアブ率いる軍隊は次々と勝利を収め、19章から続いていたアモン人との戦いも終結を迎えることとなり、ダビデは冠を取り、アモン人たちはイスラエルに仕える者となったのです。
さらに4〜6節をみると、ペリシテ人との戦いが続きますが、ゲゼルでの戦い、ゴリヤテの弟ラフミとの戦い、ガテでの戦い、いずれも勝利を収めます。少し前の時代でゴリヤテ一人にイスラエル軍が苦戦を強いられていました。そのことを思うと、どの戦いも容易な勝利ではなかったと思いますが、見事すべてに勝利しました。
20章はまさにダビデの思うとおり、望むとおりにことが進んでいった章といってよいでしょう。ところが、この20章の最中、あのバテシェバとの事件が起こったのです。
私たちは、物事が自分の思うとおり、望むとおりに運んでほしいと願うものです。しかし、そのとおりに現実がなると案外、その心は主から遠ざかってしまい、大切なものを見失うということが往々にしてあると思います。そう考えるとなかなか思うようにならない現実も、実は主が、私たちを思っての良き計らいであることも見えてきます。いずれにせよ「いかなるときも主をたたえる」そんな信仰者でありたいと願います。