16章は、神の箱を運び入れた民の礼拝の様子が記されています。
ダビデの町に入った神の箱は、そのまま天幕の中心に置かれ、民は礼拝をささげました。8〜12節を見ると、ダビデは人々に、呼び求めよ、知らせよ、歌え、思いを潜めよ、誇りとせよ、喜ばせよ、尋ね求めよ、慕い求めよ、思い起こせと語りかけます。これらはすべて命令口調でもあり、一見窮屈に感じるかもしれません。
しかし、思い出してほしいのです。本来、罪人である私たちは、これらのうち一つも許されるべきものではありません。主を呼び求めることも、主をほめたたえることも、主を尋ね求めることも、できないものです。しかしそれが許されているのです。ですから、主への礼拝にもあてはまりますが、「しなければならない」ではなく、これらをする恵みに預かっているという点に開眼させられたいと思います。
17章は、神殿の建設を申し出たダビデに対し、主がそれを退けられたことが記されています。
イスラエルにおいて、ほとんどの家は石で作られていました。ですから、ダビデの住んでいた杉材の家というのは、まさにとても高価な家を指しています。だからでしょうか、ダビデは「私が主の家を建てる」という趣旨の提案を預言者にもちかけます。しかし、主からの返答はまったく逆でした。ダビデが主の家を建てるのではなく、主がダビデの家を建ててくださっていたのです。
私たちも似たようなことがあります。私たちは労苦すればするほど、自分がこの教会を建てたと錯覚しやすいものです。しかし、これは教会の私物化につながる可能性も出てきますし、傲慢がいつもその心の底流に流れています。教会は、初めから終りまで主が建ててくださったもの。教会が建ったのは、主の恵み以外、何ものでもないということをしっかりと銘記しましょう。