第24水曜 歴代誌第一13章〜15章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【13章】

 13章は、ダビデが神の箱を持ち帰ろうとしたときのことが記されています。
 神の箱の概観は、日本でいうと神社の御輿に近いものがあります。ただ、その象徴するところは、聖なる主の臨在であり、不用意に中を見たり、手で触れたりするものではありません。
 さて、ダビデはこの神の箱を、サウルの時代にないがしろにされていたので、持ち帰ろうという提案をします。このこと自体は、とてもよいことでした。ダビデは、神の箱を運ぶための車を用意し、ウザとアフヨに任せます。ところが途中、箱が転げそうになり、それを押さえようとしたウザが打たれたのです。なぜでしょう? ウザは良かれと思ってしたことであり、責められる点などまったくないように思えます。
 しかし、このとき重大な過ちを犯していたのです。そもそも神の箱は、人の手によって運ばなければなりません。それを牛に載せて運んだのです。確かに効率はよいかもしれませんが、それはみことばに背きます。また誰が運んでもよいというものでもありません。神に仕えるレビ人のみ運ぶことが許されていたのです。当然、ウザとアフヨは違っていました。さらに、神の箱は決して手で触れてよいものではありません。聖なる主の臨在の象徴であるのです。
 ウザの行為は確かに機転の利いたものでした。しかし、そこには「聖なる主への畏れ」がなかったのです。ダビデの「神の箱を持ち帰る」という計画はすばらしいものでした。しかし、みことばに基づいていなかったという点で、画竜点睛を欠いたのです。

【14章】

 14章はペリシテとの戦いが記されています。
 ダビデはサウル王に追われたときに、ペリシテ人に助けられました。いわばペリシテ人は恩人です。そのペリシテが、ダビデが王となったとき戦いをしかけてきたのです。ペリシテ側から見れば、ダビデは自分たちを裏切った卑劣な輩と映っていたことでしょう。ダビデにしてみれば、ペリシテはお世話になった人々。人情という面では戦いにくいものがあったでしょう。しかし、王として主に召されたダビデは、国を守る必要がありました。たとえ恩義を感じることがあっても、神の側に立って決断したのです。
 沖縄では、毎年お盆になると偶像礼拝の戦いがあります。親族が束になって偶像を拝せよと強制してきます。なかにはお世話になった人々もいます。しかし、そのときどこに立つか。誰の側に立つか。主のみことばを仰ぎつつ、決断したいのです。
 ダビデは主に伺い、主は応えてくださいました。私たちに対しても、主は応えてくださいます。主に励まされつつ、勝利していきましょう。

【15章】

 15章は、神の箱を再び運び入れるダビデの姿が記されています。
 2節をみると、ダビデは箱の運搬に関して「レビ人でなければ神の箱をかついではならない」こと、さらに「身を聖別しなければならない」ことを明言しています。これは裏を返せば、自分が以前した方法は誤りであったと公にしたということであります。
 自分の過ちを認めるということは、なんと難しいことでしょう。年も要職も上にいくほど、それはより困難さを増します。しかし、このときのダビデは大いに評価できます。王であるから間違えないということではなく、主の前に真に遜り、前回、どうしてあのようなことが起きたのか、自分のとった行動を真摯に見つめ、そして包み隠さず改善案を語ったのでした。
 誰でも、どんな立場の人でも過ちを犯すということはありえます。しかし、その後、それをもみ消すのか、他者のせいにするのか、それとも自分の歩みを真摯に見つめ、過ちを認め、改善するのか、やはり後者は祝福されていくことでしょう。ぜひダビデの足跡に倣わせていただきましょう。


【信仰告白】

[2] 使徒信条